様々な試み

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 小川町に昭和三十四年から開業している米穀店がある。この家は同じ町内の農家から元禄十三年(一七〇〇)に分家して出た農家であった。屋敷地は青梅街道に面して間口十六間、一町六反五畝の畑を含み二町歩ほどの土地を所有していたが、伝承では、かつて農家のかたわら目薬の調合をしていた時代もあるという。米穀店を開いてのちも、山梨からぶどう苗をとりよせ、ぶどう栽培を試みた時期もあり、また、江戸後期から幕末にかけては、三代続けて寺子屋をひらいていた。時に応じて様々な稼ぎへの試みを取り入れていたのだろう。そしてそれはこの家に限ったことではなく、前節で述べた農家の屋号の多彩さにつながるものであろう。
 さて、同家では、戦前は軍部に出す沢庵の製造も行っていた。近くの農家に大根の栽培を依頼し買い付けていた。これは一反歩で大根三千本という目安で行っていたという。近所の女衆を雇って小川用水で汚れをおとし、十一月から年内いっぱい新潟から男の人を泊まりこみで数人雇って漬物にした。
 米穀店を開いた昭和三十四年頃は、小平が大きく変化していく時期になり、経営も順調だったという。昭和三十年代半ばは小平に都営住宅が増えていく時代でもあるのだが、それ以前に誘致されていたブリヂストンの工場は五階建て三棟の社宅をもち、その家々への販売や、同工場の食堂への納入など、販売量は増えていった。
 また、この頃まで、一般家庭が米を買うためには米穀通帳を必要とした。米が自由に販売されるようになり、米穀通帳の記憶は人々のなかから薄れていったが、かつて食糧管理法の配給制度のもと、病人、妊婦にいたるまで米を買える量が定められており、米穀(べいこく)通帳を通してそれが管理されていたため、通帳は個々の家の身元証明書的な性格も有していた。たとえば質屋に出入りする際はこの通帳の提示を求められることが多かったし、通帳に未払いの記載があると、自治体では転出届の受付を保留することもあった。米の販売とは、その意味で、他の物品販売と異なった手がたさをもつ商売であった。とはいえ米屋は粗利益五パーセントほどの商いだったという。
 販売への規制も厳しかった。当時東京都で米穀問屋は十八軒ほどだったというが、小売店は出入りの問屋を決めると、最低一年間はその変更を許されなかった。小川の米穀商は立川の問屋から仕入れていた。一年間つながりの変更を許されなかったのは、消費者と米小売店との間でも同様だったという。
 昭和三十四年当時、問屋からはほとんど俵で届いたが、時々カマス入りの米も来た。届くのは玄米なので毎日米を四十俵ずつ搗精(とうせい)していた。一割ほど減りしろが出る。搗精で出た糠(ぬか)は、化粧品の会社から委託を受けた人々が買いとりに来た。米のほかに小麦の製粉も店で行っていたし、押麦や豆類も仕入れて販売していた。