杜氏から蔵元へ

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 次に述べるのも、本節4で述べてきた農家からの転換とは違い、かつての造酒屋を居抜きで買いとって新たな造酒屋を開いた事例になる。ただ、その場所が旧小川村の農家の開墾地割りの上に展開したできごとなのでここで述べておきたい。
 かつて小川に新潟から杜氏(とうじ)で来ていた人が開いた造酒屋があり、昭和六十年の春まで酒を造っていたという。その初代は嘉永五年(一八五二)に青海川(おうみがわ)(新潟県柏崎市)出身で、若い頃から東京や埼玉の造酒屋で働いていた。柏崎一帯は、多くの出稼ぎ杜氏を輩出した土地である。やがて彼は杜氏の頭となり、小川の金子鶴蔵という人の酒蔵で働いていた。当時、杜氏の頭(かしら)として働いていた者が、廃業する酒蔵をゆずり受けて造酒屋を開くということは時々あったらしい。やがて彼は入間(いるま)(埼玉県)の蔵を借りて酒造りを始めることとなった。ここで五年ほど造ったというが、その頃、小川の金子家から、酒蔵を売るから買わないかとの打診があり、明治二十二年(一八八九)、小平に移った。この当時、旧小川村の青梅街道沿いには五軒の造酒屋があり、うち三軒が清酒の免許をもち(その一軒が金子家)、二軒は濁酒だけを作っていた。清酒を作る三軒はいずれも明治十年代には十町歩から十五町歩の土地を有する地主だった。清酒の三軒の規模はいずれも二百石以下であり、明治三十年(一八九七)頃になると造酒屋は金子家のあとに入った彼の店一軒だけになった。大正十三年(一九二四)の『酒類醤油品評会記会名簿』(第三回八王子、南多摩、北多摩、西多摩一三郡連合連合酒類醤油品評会刊)をみると、南北両多摩郡酒造組合の会員は、小平村ではこの造酒屋しか記されていない。
図5-8左図5-8右
図5-8
(左)発酵中のモロミを見る。右に上からさがっているのは泡消器(個人所蔵)(右)かつて小川の造酒屋にあった大釜 小川町(2009・4)

 この造酒屋は四代目の時に店を閉じたが、最盛期で五百石から六百石作っていたという。杜氏はやはり新潟から呼んでおり、毎年十一月頃に店に来た。杜氏の下にカシラ、その下にコウジヤ、セイマイヤ、カマヤなどの順位分担があり、往時は十人ほど来ていたがのち五、六人になった(表5-4)。
 
表5-4 造酒屋の季節労働者 昭和12年の事例
人(役職)期間年齢雇用年数住所など
1(親方)11/30-3/314825年目257.30円新潟県中頸城郡米山村
2(麹屋)11/30-3/313521年目189円
3(釜屋)11/30-3/223112年目106.60円  〃 東頸城郡山平村
4(舟頭)11/30-3/22293年目107.60円  〃   〃  旭村
5(搗屋)11/30-2/22264年目77円  〃   〃  松之山村
610/1-12/253211年目224.30円  〃 中頸城郡源村
711/30-3/22329年目94.70円  〃 刈羽郡石黒村
811/30-3/30292年目94.60円  〃 中頸城郡米山村
911/30-3/222712年目98.20円  〃 東頸城郡山平村
1011/30-3/30213年目90.50円  〃 中頸城郡米山村
11(小僧)11/30-3/30193年目72.50円
1210/1より通年252年目258円
134/30-10/123108.50円埼玉県比企郡松山町
14(桶屋)11/27-3/21103.20円86人役
15( 〃 )12/24-12/274人役
16( 〃 )12/23-3/319人役
「雇人簿 鈴木酒造場」(武蔵野美術大学所蔵)より作成。1が杜氏の親方。12は通年の雇人になる。─は記載なし。*は解読不明