「少し大きな買い物のときはどこへいきましたか」と、小平の古老の方々にたずねると、旧小川村では、まず所沢という地名がでてくる。ことに所沢の伊勢屋という店には、ダイエーが進出するまで、小川の人はよく反物を買いに行っていたという。小川周辺には、府中、立川、国分寺、田無といった街場をもった場所があり、いずれもほぼ二里前後の距離-田無はそれより少し近いが-に位置しているのだが、買い物に最も多く足をはこんでいたのは所沢になる。ただし市域の東部の花小金井付近になると、多くは田無に出かけているし、上水本町では国分寺という答が返ってくる。田無では海老沢、福沢屋という店名がよく話に出る。上水本町から、国分寺駅の北口商店街までは、子どもの足でも三十分ほどで行くことができた。昭和三十年頃、上水本町の子ども達は、夏にはその商店街のとっかかりの手こぎの井戸でのどをうるおし、駄菓子屋や文具店などに行っていた。西側には北からふとん店、文具店、菓子店、食堂、写真店、理容店、電気店、肉屋などが、東側には酒屋、塗装業の店、クリーニング店、化粧品店、生花店、茶の小売店、菓子店などが並んでおり、行きつけの場所だった。とはいえ、上水本町でも、幼少時に祖母に連れられて所沢の夏の祭りに行くのが楽しみだったとの話も聞いた。
もとよりごく日常的な買い物は、ある程度小平でもすませることができた。塩は雑貨屋で購入していたし、よろず屋や駄菓子屋は小川にも何軒かあった。ここでいう「大きな買い物」とは、たとえば盆や正月を前にしてのまとまった買出しや、呉服やたんすなどの嫁入り道具を整える折の買い物を示している。所沢への買い物は、現在の所沢駅周辺の街を指すのだが、歩いていくこともあれば、自転車で行くこともあった。国分寺の街は所沢に比べて、少し値段が高かったという。府中への他出となると、買い物よりも、五月の大國魂(おおくにたま)神社の祭りになる。かつては東村山や清瀬方面からもこの祭りに行く人が多く、当日、府中に向う道は人が切れなかったという。小川でも若者たちのあとをついて子どもたちも出かけた。途中、殿ヶ谷戸(とのがやと)ではけ(段丘崖)の湧水を飲んでのどをうるおし、府中に向った。また、子どもたちは、一里弱はなれた東村山の八坂の天王さまの夏の祭りにもよく行った。昭和初期の頃、親から十銭の小遣いをもらい、雑木林の中の道を五、六人で連れだって行ったという。
前述したように、買い物では所沢の商業圏にゆるやかに属し、祭りでは、まず、大國魂神社の存在が大きかったが、隣接する久留米、東村山などの祭りもなじみ深いものだったようである。このあと、婚姻圏や作代(さくだい)の雇用圏を概観するのだが、基本的には、小平を中心とする旧北多摩郡内での人の行き来が多い。