行商人の動き

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 とはいえ、行商の人の動きは、また多様である。青梅街道は小川の中央を東西にほぼ一直線に走っているため、かなり遠くまで見通せた。遠くの家に行商人が入っていくのもよくわかり、あとどのくらいで自分の家に来る、と見当をつけて待っていたという。もっとも懇意な行商人になると、おもて通りばかりは通らず、庭の横口から、いわゆる軒づたいに入ってくることもあった。
 以下、こうしてむらに入ってくる人を列記してみる。
 まず、富山の薬売りは市域全般に入っている。所沢からは、盆と正月の前に、衣類を売る行商人が車で来た。普通、嫁はこれを買うだけの私財をもっていないことが多く、嫁の衣類の調達は姑が配慮をすることになる。そのためこの時期、姑はその心積もりをして行商人の来るのを待ったという。魚の行商は、小平の魚屋が、週に二度程度の頻度で売りに来た。サンマが豊漁のときなどは、「サンマこい。サンマこい」と言いながら天秤棒を担いで来ていたが、これは戦後自転車にかわった。魚屋は所沢からも来ていた。東村山からは豆腐屋がラッパを鳴らしながら自転車で来た。どこから来ていたかは不明なのだが、戦前から戦後の一時期まで、下駄の歯なおし、キセルのラオ屋もまわってきていたし、オートバイでの竹かごの行商、自転車で玄米パンの販売も来ていた。アイスキャンデーは第一章二節でふれた上水本町の家から自転車で売りに来ていた。青梅方面からは薪やソダを売りに来たし、多摩川沿いの地域からジャリをリンゴ箱に入れて売りに来ていた。逆に多摩川方面へ、小平から、稲ワラの束を買いに行っていたという。
 また、大正二、三年(一九一三、四)のころ、荷車で煙草を小売店におろしていた人が天王森で追いはぎにあった話が『小平ちょっと昔』に出てくる。この人は、村山、清瀬、狭山、久留米などこのあたり一帯に卸していたという。
 売りにではなく、買いにくる商人としては、鶏卵を買いに来る人がいた。昭和三十年頃から小平では本格的に養鶏を始める人が出てきたが、それ以前は、鶏は庭で放し飼いをしていた程度であった。夜は小屋に入れ、その小屋にはイタチよけのアワビの殻がつるされていたというが、この小屋で産んだ卵を家々をまわって買う人がいた。この収入は姑の小遣いとして認められていた話をしばしば聞いた。
 小川には旅館が三軒ほどあったという。古老の記憶では、ここに旅まわりの芝居の一座がよく泊まっていて、農家の庭を借りて芝居を打っていた。見る者は、やはり庭にゴザをしいてすわって見た。昭和十年ごろ、十銭か二十銭の木戸賃で、「爆弾三勇士」などの演目をかけていた。こうした芝居は、小平ではしばしば行われていたようで、昭和三十年ころまで、熊野宮の祭礼でも行われていたという。

図5-9
現在住宅地域をまわっている行商の車 天神町(2010.4)