市場へ

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 換金作物の出荷先については、農業を取り扱う第二章でも多少ふれているのだが、小平から出て行く物資の状況として、ここで概観的に述べておきたい。
 『小平ふるさと物語』に大正二年(一九一三)生まれの女性の次のような言葉がある。「あたしの娘時分、すぐ近くの家はね、東京に出荷する野菜を作っていたの。珍しいレタスとか、丸くならないチシャといったものとか。(中略)どうして食べるのか知らないけど。西洋のセリとか。パセリとか、においの強いセロリとか、トマトも作っていた。毎日、神田の市場まで自転車で持っていってたの。」
 多くの農家が蔬菜を作り市場に出荷するようになるのは、昭和二十年代後半をまたねばならないのだが、小平の農家で養蚕がさかんに行われていた頃、こうした野菜を作っていた農家もあったのだろう。そして多くの農家がその出荷に自動車-主にオート三輪車-を使うようになるのも、同二十年代半ば以降のこととなる。それまではここに述べられているように自転車を使っていたが、これはその後ろにリヤカーを取り付け、そこに農作物を載せて引いて行った。この方法で小川から淀橋の市場まで、一日二往復する人もいたが、サドルに腰をおろすことなく、立ちこぎで往復していたという。荷車を自転車で引けるようになったのは、車体が軽くゴムタイヤを装備したリヤカーになってからのことで、大八車では人が直接引かねばならない。焼きいも用のさつまいもを東中野の問屋に出した話を聞いたが、これは大八車に四俵のいもを積み、朝三時から四時に出かけた旨の話が『小平ちょっと昔』に、鈴木町の明治四十二年(一九〇九)生まれの方の話として収められている。
 自動車を備えた運送店が小平にできたのは昭和初期頃であるという。土地一坪が一円の当時、三輪車一台の値は七百五十円だったという。土地二反以上の価格になる。大正十年(一九二一)、小川生まれの男性はこうふり返る。「リヤカーだって満足にない時代です。なかなか買えずに大八車が多かった。自転車だって六十円から八十円した。当時の勤め人の二か月分の月給だよ。アメリカ製のラージという自転車は百円してたが、これは乗り心地がよかった。村にそんなのもってるのはひとりかふたりだったね。自転車は移動する乗り物というより、リヤカーをつけて荷物の運搬に使われることが多かった。六十キロくらいは平気で運べるから、東京の市場に作物をもっていってた。」

図5-10
今も軒下などにかけられている大八車の車輪を見かける 小川町(2011.4)