戦後の自動車の普及も事情は同じで、まず、農作物出荷用の手段として普及していった。普及当時は、その免許取得も今とは状況が違っていたらしい。『小平ちょっと昔』に大正十年(一九二一)生まれの男性がこう語っている。「昭和二十三年か四年ごろまでは、七、八人で試験場に行って、代表者が「お前、あそこを回ってこい」って試験官に言われてね、一人がパスすれば全部受かった。だれに当たるかはわからないんですよ。(中略)わたしが取ったのは、昭和二十七、八年だったですけど、立川の自動車学校で警視庁から出張して(試験官のこと-引用者註)、自分の車でよかったんです。」自分の車でよかったということは、試験場への往路は無免許で行ったということになるのだが、当時の免許取得の大らかさに関しては、同類の話はよく聞いた。この話をした方は、それまで「無免許でその辺走り回っていたから」と続けている。ある程度実地に車を使っていた人が免許を取りに来ることも少なくなかったという。交通量自体がはるかに少なかった時代であり、筆記試験も、交通法規より、自動車の部品や構造の知識を問うものが多く、これも合格しやすかったという。当時車を運転する人は、軽い修理くらいは自分でできなければ効率よく車を活用できない時代でもあった。なお、小平ではじめてガソリンスタンドができたのは昭和三十五年であり、手回しポンプで車にガソリンを入れていたという。
農家への自動車の普及は、換金作物の生産を支えることになった。運ぶ効率もよくなり、出荷量も増えた。神田市場への出荷が多いのだが、一時小平の特産物となったスイカは横浜市(神奈川県)の山下公園近くの市場まで運んでいる。スイカは連作障害の出る作物である。同じ場所に五年ほど作ると、作付け場所を移さねばならない。そのため土地を広くもつ大きな農家でないと、本格的に取り組めなかった。逆にそれだけに、スイカを手がける農家は積極的に自動車を購入し活用した。スイカに関しては小平に仲買人も入っているのだが、農家は多くみずから市場に運んだ。昭和二十九年、中古のダイハツのオート三輪を買った方によれば、現在の軽トラックと同じくらい積める荷台の広さだったが、その倍は押し込んで積んだという。時速は三十五キロ以上は出なかった。神田の市場までは一時間半ほどかかった。根っこ坂にあったガソリンスタンドで一度満タンにしておくと、神田まで三往復できたという。運んだ作物の仕切書を市場でもらい、次の日にそれが支払われるシステムだったらしい。その人は農地を売るまで、十年ほど市場通いをしている。
東京の市場が近いため、その動きへの対応も個人レベルでこまやかに迅速にできるということは、逆に共同しての出荷をできにくくした。そしてかつては、小平近辺に、神田(千代田区)や淀橋(新宿区)規模の市場でなくとも、国分寺や立川、杉並の八丁、田無など、出荷できる市場が多かったことも、その傾向を助長した。六、七人で共同出荷を企て、トラックを雇って出荷準備を整えていても、そのうちのひとりかふたりが、電話や近隣の農家からさらに細かな情報を仕入れ、直前に脱けることはしばしばあったという。予定した量の出荷が出せず、またトラックのチャーター代も割り増しとなり、当初のもくろみがはずれることになる。農協主導でスイカやカボチャの共同出荷を行ったこともあるが、同様のことはやはり起ったという。出荷する立場からすれば自然な選択であろうが、供給地としては安定せず、市場もあてにしなくなる結果をまねくことにもなる。
前節の農家の屋号に反映している非農業的稼ぎの導入においても、目立つのは、その変わり身まで含めた家ごとの姿勢の多様性である。こうした特色が変化の時代を乗り切り、また乗り切ることによって強められてきたのかもしれない。