「草小金井」の駅

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 明治初期のわずかな期間、玉川上水が水運に利用されたことがあったが、小平地域の人たちの日常の物資の交流は、あくまで陸路によるものであった。
 現在市域に三本の路線をもつ西武鉄道は、今では市民の通勤、通学の足としての性格が定着しているが、当初のイメージは、それとはまたちがったものであった。昭和初期に、不動産会社が近郊の開発を図って敷いたということ自体、もとからの住民の暮らしに必ずしも密着したものではなかったことをうかがわせるのだが、当初は乗客を対象とする車両より貨物輸送の比重が大きな路線であった。
 『小平ちょっと昔』から当時の様子を引用してみる。「(前略)西武線ができたとき、小平駅から高田馬場までできたときは、電車が来ると、もうみんな仕事をやめて見たもんだ。その、電車なんか見たことないもんだから(後略)」(仲町 大正三年生まれ 女性)、「(前略)ガソリンカーだった。だってあたしらのころ、そのときは、一時間に一本しきゃなかったんだよ。昭和八年ごろでね。二人ですよ、(同じ駅で)乗ったのは。乗るのはあたしと、そこの自転車屋さんね。それから大和から来る水道局に勤めてる人、三人きりしか乗らない。(後略)」(仲町 大正二年と同四年生まれの男性)。「わたしのクラスで、宮崎さんていう神主さんの娘さんなんか、八王子の学校へ行ったんですね。そしたら、多摩湖線の青梅街道の駅から自家用車を出して、送り迎えをしてくれたらしいんです。結局、電車に乗ってもらうために、鉄道側が。(中略)けっこう遠いでしょ、あの神社(神明宮)から青梅街道(駅)まで。あそこを送り迎えしてましたよ。乗合自動車ですね。フオードです。二、三年でやめたみたいですね。なにしろ四十人乗りの電車といっても、ほとんど運転手と車掌しか乗ってなかったですね。」(学園西町 大正十年生まれ 男性)
 花小金井駅開設の頃も事情は似たようなものだったらしい。「西武線ができてね、工事が四年ぐらいやってましたかね。そして、お客さんがいなくてね、とにかく駅の方が二人ぐらいいるでしょ、そんで一日いても切符が売れなくて、そいで自分たちがお金を出し合って、「きょうはこれだけ切符が出たよ」って、ほんで出した方がいるんだそうですよ。それで、花小金井のことを草小金井って言ってね。お客さんがいないんだから。」(花小金井南町 大正二年生まれ 男性)

図5-11

西武線が線路に沿って持っていた用地を店舗用に分譲地として売り出した。線路に沿って間口二間ほどの店舗がずらりと並ぶ景観があらわれた。都市化が生んだ景観のひとつ。その店舗の写真(20112.)と現状の土地割図(小平市役所所蔵)。図中の点線は同一地番内の分筆境を示す