下肥の輸送

479 ~ 479 / 881ページ
 その次の時代の西武線の印象は、終戦の少し前に始まった「糞尿列車」であり、また、終戦直後の買い出し列車の記憶になる。
 もっとも西武鉄道が下肥輸送を行った時期は、そう長くはない。昭和十九年六月から同二十八年三月まで、深夜を利用してのこととなる。それまで東京都民の糞尿は、トラックと船で東京湾に運び海中に投棄していたが、戦争の激化にともない、トラックや人手の不足からそれがいき詰まり、その解決策として武蔵野鉄道と西武鉄道(この二者はのちに合併、西武農業鉄道と称した時期もある)によって農村部に運ばれることとなった。これは圧縮して固められた糞尿であったという。現在の小平の古老のなかには、畑の肥料として使うため、木の水槽をとりつけたリヤカーを引いてこれを取りに行った体験をもつ方も少なからずおれらる。駅の近くにコンクリート製の貯留槽を作り、配給で農家に配ったという。
 聞書きのなかに出てくる西武線とは、まず、そうした印象で語られる路線でもあった。
 なお、昭和二十二年頃から四、五年間のことで、小平の農協が東京都から委託を受け、都内の汲み取りを行っていたこともある。小平では三十五、六軒の農家がこれを請け負っていた。これは多くは馬車をもっている家が請け負い、杉並区あたりまで、よく汲み取りに行っていたという。