明治初期の婚姻圏

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 『小平町誌』には、明治五年(一八七二)に作成された小川と野中新田与右衛門組の壬申戸籍(じんしんこせき)を分析して婚姻圏を調べた図が示されている(図5-12・13・14)。壬申戸籍は、現在では法務省が保管し、その閲覧が許されていない資料である。そのため現在では把握することができないデータであり、その図をここでそのまま引用したが、これを見ると、ほぼその三割が旧小川村の村内婚であり、七割が村外婚となる。村外婚の場合、埼玉県下の地域や西多摩郡や旧東京市内もでてくるが、最も多いのは北多摩郡であり、具体的には東村山、国分寺、砂川、久留米、田無といった地域になる。かつてどこの村にも、世話好きで足まめな人がおり、情報を集め婚姻話をまとめていたこと、村々をまわる職人などもそうした話をとりもつ役目をしていたことなどを第八章でふれているが、そうした人たちの情報圏のありかたは、主にこうした広がりの内だったのであろう。なお『小平町誌』には明治三十一年(一八九八)以降の婚姻圏の変化を示した円グラフも示されており、これも紹介しておく(図5-13・14)。
図5-12
図5-12
婚姻圏『小平町誌』より。(なおグラフ中の数字は見やすいように字体を打ちなおしている)

 
図5-13
図5-13 婚姻圏の変化。『小平町誌』より(身分登記法、戸籍受付帳による)
注 時代の区分は
(1):明治31年から大正1年まで
 役場に保管されている最も古い帳簿(明治31年)から、第1次大戦開戦(大正3年)前まで、小平村において養蚕の最もさかんであった時代。
(2):大正2年から大正12年まで
 小平学園の開発がはじまり(大正12年)新移住者が増し、関東大震災(大正12年)が起こるまで、他の地域との接触がひろがりはじめた時代。
(3):大正13年から昭和16年まで
 転入者が増加しはじめた時代から、諸学校施設が小平に移され、太平洋戦争がはじまるまでの時代。
(4):昭和21年から昭和30年まで
 終戦後の時代、都営住宅ができ、その他都会との交通が著しく増加した。なお、太平洋戦争中(昭和17~昭和20年)のものは、帳簿が不備のため集計できなかった。各時代とも、3年に1年の割合で年度を抽出し、その年度に受付けられた全件数について記録した。

 
図5-14
図5-14
明治31年以後の通婚圏の変遷。『小平町誌』より

 また、ある土地から嫁ぐと、その縁故をたどる形でふたつの土地の間で婚姻のつながりが広がっていくこともあったようであるが、いずれにしても地縁的には北多摩を中心とした広がりとなっている。