由緒来歴

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図6-1
小平神明宮 小川町(2009.9.17)

 小平神明宮は小川町に鎮座し、江戸時代の小川村の範囲を氏子区域としている神社である(図6-1)。その由緒については、現在、同宮で配布している由緒書によれば次のとおりである(小平神明宮発行「小平神明宮御鎮座由緒」)。
 この地が開墾された当時、未知で過酷な土地に移り住む人々の守護神として、明暦二年(一六五六)に開拓願いとともに小平神明宮勧請の願いが出され、五年後の寛文元年(一六六一)に、西多摩郡殿ヶ谷村(現瑞穂町)鎮座の阿豆佐味天神社(あずさみのあまつかみのやしろ)の摂社、神明ヶ谷の小高い山の中腹の神明社から分祠遷座された。

 前掲表6-1の由緒欄に書かれているところによれば、勧請当時は現在地よりも二百間(約三六三メートル)余り北側に鎮座しており、天和元年(一六八一)九月に現在地に移転したという。
 小平神明宮の祭神は天照大御神である。相殿には天満宮、山王宮、愛宕社が祀られている。そのほか境内社として八雲神社・八幡神社・春日神社・稲荷神社・秋葉神社・熊野神社・白山神社が、境外社として中島町に一の宮神社が祀られている。一の宮神社の由緒は、一の宮神社境内に設置された案内板によれば次のとおりである。
 玉川上水が完成して間もない頃、徳川幕府の老中松平伊豆守信綱は武蔵野開発のため、小川村の分岐点(小平監視所)から新河岸川まで約三〇キロメートルを掘り野火止用水を作りました。しかし「水喰土」といわれる関東の土のために水が地下に吸い込まれ、なかなか水は流れませんでした。そこで、小川開拓者のひとり宮崎主馬は、分水口近くに祠を建て水分神と豊受神を祭って、山の神と称し、通水祈願をしました。神慮にかなったのか、突然大雨が降り出し、一夜にして玉川上水の清流は水音をたて、野火止用水を流れたのです。
 これによって、この祠は一宮神社という社号を賜ったと伝えられています。そして農耕の守護神として崇められ、春二月の迎えの祭り、秋一一月の送りの祭りは今なお続けられています。

 小平神明宮は現在も旧小川村の地域を護る鎮守の神様として崇敬され、小川町の一~八番組、本町組、坂北組という旧来の組を基準にして神社役員を選出している。また、小川西町や学園西町といった比較的新しく住宅開発された地区にも崇敬会や氏子会ができて、神社を支えている。