図6-4
熊野宮 仲町(2010.2.11)
熊野宮 仲町(2010.2.11)
熊野宮は仲町に鎮座し、江戸時代の小川新田地域を氏子区域とする神社である(図6-4)。その由緒については、熊野宮発行の由緒書によれば次のとおりである(熊野宮発行「武蔵野乃一本榎 熊野宮由緒」)。
当宮は、武蔵国多摩郡殿ヶ谷村鎮座の延喜式内社・阿豆佐味天神社の摂社として、同郡岸村字岸組に産土神と奉斎されていた社を、小川村の開拓に着手した小川九郎兵衛と、阿豆佐味天神社の神主で当宮社家の始祖である宮崎主馬が、寛文年間に小川村名主の屋敷内に遷祀し、その後小川新田(現在の仲町、喜平町、学園東町、学園西町と上水本町の一部と上水新町)の開拓を行うのに先立って、その守護神として宮崎主馬が宝永元年(一七〇四)に榎の大樹のもとに祠を建立し遷座したのが縁起である。
以来、この地域の鎮守の社として崇敬を集め、平成十六年(二〇〇四)に御鎮座三百年を迎えた。
往時この一帯は「逃水の里・にげみずのさと」と称され、川もなく水の便が非常に悪い場所で、人家が一軒もない荒漠たる武蔵野の原野であったと言われている。その当時から重要な街道であった青梅街道と鎌倉街道(現在の府中街道)が、この小平の東西と南北に通じているが、特に青梅街道の田無から箱根ヶ崎までの間には宿場もなく、往還する人馬にとって寒暑風雨や飲み水の確保に至極難渋した地域であったようである。
そのような原野の中にあって、当地に一本の榎の巨木が聳え立っており、これが「武蔵野の一本榎(えのき)」と呼ばれていて、両街道を往来する人々の良き目印や一時の休息の場になっていたとも伝えられている。この初代の榎は、寛保年間(一七四二~四四)に枯木となり、その後に一本榎神社として祀られ、現在その社は、末社殿に合祀されている。二代目の榎も目通り七尺の大樹であったが、大正三年九月の暴風雨により倒潰し、現在繁っている榎は、樹齢約百年の三代目の孫木である。
また、社殿正面には、樹齢約二百五十年から三百年の二本の欅が寄り添って繁っており、「夫婦欅」と呼ばれ夫婦円満の象徴として参拝者に親しまれている。
以来、この地域の鎮守の社として崇敬を集め、平成十六年(二〇〇四)に御鎮座三百年を迎えた。
往時この一帯は「逃水の里・にげみずのさと」と称され、川もなく水の便が非常に悪い場所で、人家が一軒もない荒漠たる武蔵野の原野であったと言われている。その当時から重要な街道であった青梅街道と鎌倉街道(現在の府中街道)が、この小平の東西と南北に通じているが、特に青梅街道の田無から箱根ヶ崎までの間には宿場もなく、往還する人馬にとって寒暑風雨や飲み水の確保に至極難渋した地域であったようである。
そのような原野の中にあって、当地に一本の榎の巨木が聳え立っており、これが「武蔵野の一本榎(えのき)」と呼ばれていて、両街道を往来する人々の良き目印や一時の休息の場になっていたとも伝えられている。この初代の榎は、寛保年間(一七四二~四四)に枯木となり、その後に一本榎神社として祀られ、現在その社は、末社殿に合祀されている。二代目の榎も目通り七尺の大樹であったが、大正三年九月の暴風雨により倒潰し、現在繁っている榎は、樹齢約百年の三代目の孫木である。
また、社殿正面には、樹齢約二百五十年から三百年の二本の欅が寄り添って繁っており、「夫婦欅」と呼ばれ夫婦円満の象徴として参拝者に親しまれている。
祭神は伊邪那岐大神・伊邪那美大神で、相殿には早玉男乃神・事解雄乃神・猿田彦神を祀る。境内には一本榎神社、八幡宮、天神社、白山社、稲荷社、庚申社、祖霊社が祀られている。熊野宮は現在も旧小川新田地域を護る鎮守の神様として崇敬され、仲町上・仲町下・喜平町・学園東町・学園西町の一部(字上水内)を氏子区域とあざしてそれぞれから神社役員を選出している。仲町と喜平町は江戸時代から集落を形成していた地域で、学園東町・学園西町は一橋学園の開発によってできた比較的新しい町であるが、これら全体を分け隔てなく氏子区域として神社役員を選出している。