新しい環境への対応

520 ~ 522 / 881ページ
 小平は、小川、小川新田、大沼田新田、野中新田与右衛門組、野中新田善左衛門組、鈴木新田、廻り田新田という七つの区域からなっており、それぞれに土地の開発にかかわる神を祀る神社を抱えている。小川には小平神明宮と日枝神社、小川新田には熊野宮、大沼田新田は大沼田稲荷神社、野中新田には武蔵野神社、堀野中稲荷神社、鈴木新田の上鈴木稲荷神社、下鈴木稲荷神社、廻り田新田の氷川神社といった具合である。
 これらの祭りは九月以降に集中して行われるが、ここでとりあげる小平神明宮(以下、神明宮と略す)の八雲祭は四月に行われる。祭りはその地域のあり方、住民の日々の暮らしと密接につながっている。日々の暮らしの変遷は、歴史の表面に出てくる大きな事件や出来事ではなく、便利さや快適さへの希求(ききゅう)がもたらす小さな出来事の積み重ねである。それが住民の意識や価値観を徐々に変えていく。廃れるものもあれば新たに生みだされるものもあり、それまではあたりまえとして問題にならなかったことが、状況がかわると問題視されることもある。
 昭和三十年代以降の二十年間といえば高度経済成長期であり、暮らしぶりが大きく変化した時期である。八雲祭もこの間、神輿渡御の中止と復活という大きな転換期を迎える。この神輿渡御が中止になった期間の小平の暮らしにはどのような変化が生じていたのであろうか。昭和四十一年の「小平市報」(以下、市報と略す、三月二十日)によると、十万七千人余りの人口のうち以前からの住民は一万五、六千人程度と推定され、約九割の市民が小平以外の土地から移り住んできた者であった。団地やアパートで生活する者も多く、そこで新たに生じたのが、宛名が不完全な郵便物の問題であった。既に昭和三十九年の市報(九月二十日)に、棟番号や室番号が不完全なために配達できない郵便物が一日三百通もあるため注意してほしい、という郵便局からのお願いの記事が掲載されている。部屋番号だけが異なる集合住宅という新しい居住環境ゆえの課題であった。このような宅地化にともなって小平に移り住んだ住民を「新住民」、それ以前から旧農村部に住む住民を「旧住民」とひとまず表現することを断っておきたい。
 これらの新住民の場合、その大半が核家族であったことは推測できる。彼らの要望に応えるかのように、昭和四十一年頃から市報(四月五日)に、福祉事業として「保育ママ」や「家庭奉仕制度」が登場する。保育ママとは、保母の資格を持つ人に共働きの家庭の幼児を預かってもらう制度で、委託希望者が多かったようである。家庭奉仕制度とは、老人家庭を対象に買い物や洗濯、身のまわりの整理の手伝いをする専門奉仕員をおき、無償奉仕するという制度であった。昭和三十八年八月一日に施行された「老人福祉法」を受けた老人福祉施策の一環であった。つまり、家庭において乳幼児から老人までの面倒をみるという環境ではなくなってきたことを示している。これは都市化のなかで社会全体が抱えていた問題であり、小平も例外ではなかったのである。
 そのなかで、公民館を介した様々な活動もきわめて活発になっていく。たとえば昭和三十九年に高齢者を対象にした「明治学級」が発足しているが、六十五歳から七十歳にかけての受講生でにぎわい、隔週開設が毎週開設となるほどに好評であった(「市報」昭和四十一年五月二十日)。そこでは午前中は時事問題や郷土の歴史等を学習し、午後は詩吟や盆栽、墨絵といったクラブ活動の時間にあてられた。受講生の年齢から推測すると、新住民というよりも旧住民が多かったのではないかと思われる。つまり人生の晩年の過ごし方に変化が見られ、行政に後押しされる形であれ、積極的に家の外につながりをもつような動きが生じている。明治学級の受講生は後に「明寿会」を結成し、高齢者の文化活動を推進していくことになる。公民館活動で生まれたネットワークがやがて自主的な活動へと展開していく一例である。
 このように、この頃の小平は新しく移り住む住民が急増し、生活環境が急変するなかで、新しい生活状況に対応した様々な活動が展開された。次項でとりあげる市民まつりは、新住民に参加を促すと同時に、旧住民の生業に考慮したイベントを取り込む等の工夫がなされており、すべての老若男女を対象とした行政主導のまつりである。市民まつりが大型化していく一方で、神明宮の八雲祭のように各地域で継承されてきた旧来の祭りは、昭和三十年代から四十年代にかけて衰退している。それは担い手であった青年会の衰退と連動していたのだが、後に旧来の地縁にとらわれない新たな団体によって祭りの再生が図られることになった。なお、以下の文章で、神社祭祀(さいし)を指す場合は祭りという表記を、新しく創られたイベントを指す場合はまつりと表記することにする。