神明宮と八雲祭の概略

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 昭和三十四年に刊行された『小平町誌』には祭りに関する項目はあるが、詳細な記述はない。昭和三十年代までの祭りについては、『郷土こだいら』や当時の新聞記事が残る程度である。
 『郷土こだいら』によると、小川町に鎮座する神明宮は、明暦三年(一六五七)に武蔵国多摩郡岸村神明ヶ谷の山上にあった産土神(うぶすながみ)を奉戴し、寛文元年(一六六一)に現在の場所から三百七十五メートル程北側に社殿を建立したのが起源とされる。天和元年(一六八一)に現在の境内に遷宮、明治六年(一八七三)には村社となり、明治十七年(一八八四)には郷社に列し、同四十年には幣帛料供進(へいはくりょうきょうしん)神社に指定された。明治四十二年(一九〇九)には無格社天神社の合祀が許可されている。大祭として、祈年祭(春祭り)、例祭、新嘗祭(秋祭り)、神幸祭があげられているが、その他の祭儀(さいぎ)については触れられていない。昭和四十年代以降の神明宮での祭儀式に関しては、「小平玉川上水を守る会」が昭和五十年から平成三年にかけてシリーズでまとめた「地元の方を訪ねて」という手書きの会報のなかに記載がある。「田中次雄氏大いに語る」(同報第十一号)と題した記録の一部がそれである。田中氏は神明宮の神社責任役員を務めていた人物であった。
正月元旦   平安祭(新年を祈願し続いて四方拝)、元旦祭(氏子代表を午後二時に招いて行う)
二月十七日  祈年祭(五穀豊穣)
四月二十九日 八雲祭(八つの町内会にある御輿を愛好会に所属している者と遠来からの担ぎ屋さんたちで行う/当時はこのように記述されているが、現状では一基の宮神輿を十の町内会の氏子と愛好会(小川睦会)に所属している者とで担ぐ)
六月三十日・七月三十一日 (神社庁が主体になって型身代(ママ)(人の形)大祓い行事として芦の湖上で型代流しを行う)
九月十七日  例祭(神明宮鎮座記念で子どもの御輿担ぎ)
十一月十七日 新嘗祭(初穂などを天神・地祈に薦める)
十二月二三日 冬至祭(星祭り)
十二月二五日 お祓い(種々神札の領布式)
十二月三一日 除夜祭(午後十一時四十分より)

 これらは神明宮の主な行事であるが、なかでももっとも盛大なのが四月の八雲祭である。祭りに関して言えば、「小平神明宮略記」によると、文政年中になっても春秋の祭礼の日は定まっていなかったようだ。その後、大正時代の流行病を鎮圧するために、八雲神社の例祭日に健早須佐之雄命(たけはやすさのおのみこと)の御神体を乗せて渡御したことが神輿渡御の始まりだとされる。当時の様子は、「地元の方を訪ねて」の第二号に収録された「金子博氏大いに語る」に詳しい。金子氏は消防団長や町内会長、郷土研究会会長を務めた人物であった。大正六年(一九一七)に赤痢が発生し、川での食器洗いや洗濯によって下流に伝染した結果、小川で九十人近くの者が亡くなるという出来事があった。その後、厄払いとして大正九年(一九二〇)八月十五日に久しぶりに神輿を担いだところ、勢い余って夜の十二時頃まで神輿が戻ってこなかったために宮司が激怒し、神輿を神倉に入れて入口を狭くして保管してしまうという事態になったことが記されている。同様の話は終戦後にもあったようで、昭和三十年代以降の神輿渡御中止の理由として語られることもあり、関係者の間で語り継がれている。