神輿渡御が中止になる以前の八雲祭は四月三日であったが、雨天になることが多く、復活以降は現在の四月二十九日に日程が変更された。
八雲祭を中心となって行ってきたのは青年会であり、祭りのなかでは圧倒的な力をもっていた。青年会は戦時中は若者が戦地に赴いていたために機能していないが、終戦後に復活している。青年会と八雲祭の隆盛を物語る出来事として、多くの関係者に今でも語られるのが神輿の取り合いである。戦後の様子は伝え聞いた話ではなく、自らの体験として語る者が多い。当時の神輿は現在のものよりもかなり小さく、大人四人程度で担げるものであった。この神輿は現在は神社に保管されている。神輿は小川一番組から八番組、本町、坂北へと順番に渡されていくのだが、どの組でも次の組に渡したがらない。少しでも長く担ごうと、渡しても取り返しにいくこともあり喧嘩のようになることもあった。同じ状況が各組で起こるため、夜になっても神社に神輿はなかなか帰ってこなかった。昭和二十三、二十四年頃の渡御では、朝七時に出発した神輿が翌朝になってようやく神社に戻ってきたこともあった。責任役員たちは神輿が戻るまで神社で待ち続け、宮司は激怒したと言われている。この出来事は、前述した大正時代の出来事とあわせて、神輿渡御の中止以前の一時代を象徴する記憶として関係者に語り継がれ、共有されている。
昭和二十年代半ばになると青年会の中から「時代にそぐわない」ため神輿渡御を中止するという提案が出されるようになった。小川支部の多くの人が同意し、昭和二十年代後半(中止時期については記録がなく、関係者の記憶を辿ると二十年代後半であったことが推測される)に神輿を担いでまわる渡御は中止となった。結局、その間は神事を執り行った後にトラックの荷台に神輿をのせて、神主が同乗し、二時間程度で各神酒所をまわることになった。祭りに対しても、戦前の若者とは異なる考え方が出てきた時期であった。
この時期は、それまで地域社会の中核となっていた青年会に入る若者が減少する傾向にあり、青年会活動も様変わりしていった。昭和三十一年六月四日の読売新聞にも「青年団 お祭りから学習へ」という記事があり、都下七市三郡(武蔵野市を除く)の青年団で結成された三多摩青年団体連絡協議会で、「青年団から゛酒″という字を一掃しよう」「お祭青年団の汚名を返上しよう」といった意見が出され、読書会やコーラス会等の共同学習の機会を設けようという気運が高まっていたとある。
このように祭りに大きな変化が起こった昭和三十年代は、旧来の様々な行事のやり方が指導の対象となっていく時期でもあった。たとえば、昭和三十三年の「小平町報」(以下、町報と略す、七月一日)の公民館だよりには「盆踊り講習会」の案内が掲載されている。それをみると、「小平公民館は、地区の健全なレクリエーションと青少年に悪影響のない盆踊りを行ってもらうため」に講習会を計画しているとある。そこでは「効果的な盆踊りのもち方、集会届等の手紙、踊り方を指導するもので講師はレコード会社等に依頼する」こと、講習会の詳細は婦人会や青年会を通じて連絡するので、盆踊りを計画している地区は指導者を三名派遣するように、とある。盆踊り講習会の記事は新聞にも掲載され、従来の盆踊りが青少年に悪影響を及ぼすとみなされるようになっていたことがうかがえる。
同時期に、府中の大國魂神社のくらやみ祭でもその存続が議論されている。昭和三十四年四月十八日の読売新聞には、「存続か廃止か、くらやみ祭り」とある。夜間に行ってきた祭りを昼間に変更するか否かという問題が、氏子や市議会、世論をまきこんで議論されている。変更理由は、夜の祭りゆえに起こる傷害問題、青少年問題、女性や子どもへの危険性等であった。神事は夜間、祭礼は昼間に行い、両方を切り離すという案も出されている。しかし、氏子総代に代表される伝統維持派は、変更は時流への迎合であると主張し、御神体の入っていない昼間の神輿はただのレクリエーションとなり、講中も神輿を担ぎに来なくなる、その結果、祭り自体がさびれてしまうと反論している。
このように、小平に限らず多くの地域で、祭りがはらむ猥雑(わいざつ)さや混沌(こんとん)は、女性や子ども、青少年のための健全なものへと作り替えられていった。それは公民館等の活動を通じてサークルのような新たなつながりを生むことにもなった。