青年会が衰退した結果、祭りの神輿渡御復活に際して大きな役割を果たしたのは、睦会という神社を支える新しい組織であった。復活の発端は市議会議員選挙の当選祝いの席であったという。小川から一人が当選し、その祝いの席に出席した者のなかから祭りを復活させようという声があがり、血気盛んだったこともあり、すぐに神社にかけあった。署名を集めて以前のような神輿渡御の復活を氏子総代に嘆願し、昭和五十年にようやく復活に至ったのであった。このときに旧来の青年会に代わり、神社を支え、祭りを行う団体として「小平神明宮小川睦会(以下、小川睦会と略す)」が結成された。小川に限らず武蔵野神社の武蔵野神社睦会、熊野宮の熊野宮一本榎睦会、上水本町稲荷神社・上鈴木成年親睦会、鈴木稲荷神社・睦会成年部といった各神社を支える団体が結成されている。
結成されたものの、二十年以上も神輿を担いでいなかったため、最初のうちは氏子総代は渡御がうまくいかなかった場合を危惧していた。ようやく了解が得られ、まずは秋の例大祭で担ぐことになった。神輿愛好会の欅睦に指導を依頼して練習を積み、本番に臨んだ。そのとき神輿の担ぎ方を教えた欅睦メンバーの一人は、小川睦会のメンバーでもあった。彼によると三多摩と江戸前の担ぎ方は違うという。これは神輿の形状にかかわるもので、現在の神輿は一番上に鳳凰が乗っており、その向きで神輿の前後がわかるため、前へ前へと進む。昔の三多摩は神輿のどちらが前後かわからず、くるくるまわる担ぎ方だったという。姿勢も後傾で寝ているようだった。斜(はす)に担いだのは、前に壁や何かがあれば足で蹴ることができるように、つまり自分の身を守るためであった。神輿の置き方も、今は神輿の下に台を入れて置くが、以前はそのまま地面に落としていた。台が無い場合は、担ぎあげるときに指をはさまないように気をつけていたものだった。