神輿渡御復活の立役者

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 小平の六番組で生まれ育った昭和十三年生まれのある男性は、神輿渡御復活の中心となった一人である。
 彼が太鼓をたたくようになったのは中学生の頃からであるが、小学生の頃は子ども神輿を担いでいた。当時の子どもたちは、祭りの一か月前頃になると神輿を出して、学校から帰ると自分たちの組を毎日のように担いでまわったのだという。子どもにとっては遊びのような感覚であった。担ぎながら各家でわずかばかりの寄付をもらい、それで神輿の塗装や飾り用の材料を購入し、神輿に手を加えていくのも楽しみだった。
 太鼓をたたくようになると、祭り以外のときにも自分なりの工夫をして練習した。畳の両端をロープで吊るし、水を打ち、それを太鼓に見立て、たたくときの腕の振りや身体の動かし方を覚えていった。太鼓のたたき方にも決まりがある。桴(ばち)を受け取ると、身体をならすために軽く三発たたく。その後、大きく身体全体を使って左右の腕で七発(右・右・右・左・右・左・右)、ここで太鼓の上から警固提灯が降りてくる。再度、五発(右・左・右・左・右)、再び警固提灯が降り、最後に三発(右・左・右)たたき終わると、両手で桴を掲げて太鼓に一礼し、次の人と交代する。
 桴の振り方も慣れた人であれば、本桴(ほんばち)というたたき方をする。本桴は太鼓の皮に対して、桴の先を斜めにあてる。身体も肩や腕を無理に曲げず、斜め上から下に振り下ろすような動きになる。大きな太鼓ゆえにたたいた後の振動と桴の跳ね返りは大きく、真正面からたたくと顔に桴があたり怪我をすることも多い。それをうまく避ける。一方で、平桴というたたき方をすると、指や手に怪我をしやすい。平桴は太鼓に対して桴を並行に置く。そのため、太鼓と桴に指が挟まれやすくなる。平桴(ひらばち)は腹に響く大きな音が出るが、遠くまで音は響かない。本桴は平桴に比べると音は小さいが遠くに響く。天気や湿度によって太鼓の張り具合は異なるので、慣れた人になると、張り具合をたたきながら確かめ、最も遠くまで音が聞こえるポイントを探るという。以前は小平も本桴でたたく者が多かったが、最近は平桴でたたく者が増え、太鼓の音が響きにくくなったようだ。十年ほど前から女性のたたき手も登場したが、彼女たちは小平以外からの参加者である。
 太鼓だけでなく、警固提灯のおろし方も難しい。太鼓の上にいる提灯役は膝を曲げずに、腰だけ曲げて提灯を降ろす。提灯が太鼓に触れてはいけない。昼間は提灯にろうそくを灯さないので問題はないが、夜になってろうそくを灯した場合、太鼓に触れると振動で提灯が揺れて火が消えてしまうのだ。提灯役でも昼と夜では緊張感が違う。現在の八雲祭は夕方には終了するため、ろうそくを使うことはないが、以前、大みそかに神明宮で愛皷会が太鼓をたたいていたときは、同会の者がろうそくを灯した提灯を持って太鼓の上に上がっていた。その大みそかの太鼓も、現在は一般の参拝客に開放しているため、提灯役が太鼓に上がることもなくなった。
 昭和五十年に八雲祭が復活した時から、彼は神明宮に自作の桴の奉納を続けている。府中で桴の作り方を見て覚えていたことから、自分でも作るようになったのだ。材料となる檜の生木の丸太を、小平の材木店で日の良い日(大安)に購入する。六尺(二メートル弱)の檜二本から二膳(桴二本で一膳)作る。折れないように、芯の通ったなるべく節の多いものが良い。それを鉈(なた)で桴の形にし、カンナで削り、直径約十センチ、長さ六十センチの桴にする。これ以上の大きな桴だと太鼓を痛めることになる。サイズが適当であるか、一定サイズの金輪に通して確認する。金輪を通れば合格となり、桴の先に黒い二本の線をラッカーで塗る。これは府中のやり方で、彼もそれを踏襲している。一膳作るのに二日かかる。
 現在、八雲祭で使用している衣装の烏帽子(えぼし)にはワイヤーが入っており、人やものにぶつかっても元の形に戻りやすい。この工夫をしたのも彼である。衣装が揃いの半纏になったのも神輿渡御の復活以降で、それ以前は各人が好きな格好をして参加していた。
 彼は神輿渡御の中止前は青年会の一員であったが、復活後は睦会の一員となった。若い頃は、裕福であるにもかかわらず祭りのときに寄付を出さないような家に神輿ごとつっこんだりした。立川に進駐軍がきているときは、アメリカ人が路上に車をとめて見物しているのを見つけると、神輿のお先棒を車の下につっこんでひっくり返し、基地に関係者が呼ばれたこともあった。
 神輿渡御を復活させたのは五、六人の有志で、彼もその一人である。最初は肩をつくり足の運びを覚えるために、五、六十人で市役所の横や神社の境内で練習した。当時は神輿愛好会の欅睦も自前の神輿を持っておらず、土台となる担ぎ棒しかなかった。その土台を練習用に借りて、神輿の代わりに大きな石をのせて担ぐ練習をしたのであった。当日までどうなるかわからず心配したが、当日になると三百人が集まった。その日は夕立にも見舞われて、雨と人の熱気でむせかえり担ぎ手から立ち上る湯気で神輿が見えないほどであったのを今でも鮮明に覚えている。担いだ後は肩が痛くなるが、その痛さが勲章でもあった。復活当時は関東一円の祭りに参加して担ぎ方を研究するほど熱中した。