府中との関係

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 小平の男性の多くは、八雲祭が終わると五月五日の府中の大國魂神社の例大祭「くらやみ祭り」に行くことを楽しみにしていた。神輿を担いだり太鼓をたたきに行くのである。以前は一番組や二番組といった各組でまとまって行ったが、現在は個人でばらばらに行く。
 大國魂神社の例大祭は、大太鼓とその講中組織が関東一円に分布するという特徴を持っている。小平もその講中の一部に含まれる。くらやみ祭では、御本社と御霊宮(ごりょうぐう)、一之宮から六之宮までの八基の神輿、御霊宮、御先拂、御本社・一之宮、二之宮、三之宮、五・六之宮の六張の太鼓が出る。『大国魂神社の太鼓とそれをめぐる習俗-暗闇祭と町方と講中Ⅱ-』によると、太鼓は五・六之宮で一張、神輿は五之宮と六之宮で各一基が出ることになっている。現在、小平は一部の地域を除き、五之宮の神輿を担ぐところが大半である。神輿に関しては、埼玉県児玉郡の金纉神社が大國魂神社の五之宮に神輿を寄贈した経緯で、児玉から府中まで神輿を運んだ道中の村々が、講中として今でも神輿担ぎに参加しているのだとされる。府中の五之宮の神輿を取りまとめているのは新宿(しんしゅく)の青年会である。太鼓に関しても、『大国魂神社の太鼓調査報告書』には、昭和二十三年に御先拂の太鼓が作り替えられた際に、古い太鼓を「小平市のほうへ売った記憶がある」という払い下げについての記載がある。
 府中の祭りでは人が乗れるほどの大きな太鼓が登場するのだが、同報告書によると、これは大正時代頃からだとされる。明治時代に神輿同士の喧嘩が激しくなり、その喧嘩を防ぐために神輿と神輿の間に割ってはいる大きな太鼓が必要になったからだと考えられている。当時は喧嘩にもルールがあり、ササラと言われる青竹以外は使わないことになっていたが、それでも四之宮と五之宮の喧嘩では勢いあまった者たちによって斧で神輿を壊しあう等、激しい喧嘩になっていた。このような神輿の喧嘩を止めるために、車にのせて曳く大きな太鼓は都合がよかったのである。
 五月五日の祭り当日の朝になると、近隣の町から多くの若者が太鼓をたたくために府中を目指して歩いていった。それほどまでに若者が熱狂するのは、祭りに参加することの意味づけが今とは異なっていたからである。『大国魂神社の太鼓調査報告書』には次のような描写がある。「府中から東北にあたる地域の村々では、男が一五歳になると、それは太鼓講中にはいっている家ではかならず、太鼓叩きにゆかせた。それが成年式になったのである。若い子どもっぽいのが絆天を着て歩いていると、出あう人びとはかならず『大人になって来い』と声をかけた。そういわれるのが晴れがましく、またはずかしかったという。」とあり、府中の近隣地域では府中の祭りに参加することは「大人になる」ための儀礼であったといえそうだ。府中と周辺の村は人的交流によって祭りを支えあい、祭りを通して社会的位置づけを見出すという相互補完性をもっていたといえよう。
 戦前は太鼓をたたき始めるのは夕方からで、南風が吹くと東京の新宿まで、北風が吹くと川崎まで太鼓の音が聞こえ落ちつかなくなる者が多かったという。府中と周辺地域との祭りを通した結びつきは、耳に届いてくる音によっても実感されたのだろう。しかし、生業が農業から会社勤めに変わるにつれ、昭和四十年前後から若者が太鼓を以前ほどには叩きたがらなくなっていった。
 以前ほどではないにしろ、それでも小平から府中に通う者は今でも多い。激しい喧嘩が起っていた当時のような荒々しさやエネルギーは、今では細かいルールの下に制御される。不特定多数の太鼓打ちが祭りに自由に参加しているようにみえるが、太鼓の団体の一員となるには一定の約束事の厳守が求められ、組織の管理下に置かれる。その一つが祭りに先立つ「半纏合わせ」である。地元団体と応援団体の顔合わせと半纏の確認をするのである(小平の半纏合わせについては次項で詳述)。ここに小平の神輿愛好会である欅睦も出かけていく。このとき、神輿愛好会の欅睦と太鼓愛皷会である関東武蔵総社の半纏を持っていく。欅睦と関東武蔵総社の両方に所属している者もおり、神輿を担ぐときは欅睦の半纏を、太鼓をたたくときは関東武蔵総社の半纏を着ることから、両方の半纏を申請しておかねばならないからだ。