太鼓の講中

537 ~ 540 / 881ページ
 小平は明治時代は御先拂の太鼓講中であったが、後に御本社の講中へと移り、戦後しばらくは御本社の講中が小平の各地にあったとされている。しかし、講元が亡くなると行かなくなっている。明治時代には二之宮の、戦後間もない頃には五・六之宮の講中も小平にあったようだ。
 くらやみ祭では犯罪に近いトラブルも多数起きていたこともあり、昭和四十年代になると警察の指導が厳しくなった。当時は太鼓の講中には入らずに友人と連れ立って府中に通っていた者も多かった。小川の者であれば、府中の新宿の神酒所に顔を出すことができると聞き、五百円を払って立ち寄っていた者もいる。府中に行くときは、通りを歩きながらたたくササラと呼ばれる竹の棒を持って行っていたが、次第に警察がそれをとりあげるようになる等、指導が厳しくなっていった。この頃から祭りに行かなくなったという者も多い。
『大国魂神社の太鼓調査報告書』によると、昭和四十八年には元講を務めていた人物から五・六之宮の総代にあてて元講町内委託願いが出されている。これを受けて町方と講中が合同で愛皷会という組織を結成し、太鼓の管理をすることになった。現在の「五・六之宮太鼓愛皷会」である(図6-23・24・25)。この時点で二十二か所となっていた講中は、十三の支部組織として再編成された。その支部のなかに小平小川、野中が含まれていた。愛皷会は平成二十二年現在で約六百五十人の会員を抱え、大國魂神社の崇敬団体である「奉賛会」、「一般会員」、府中の各地区からなる「各地区会員」、府中以外の地域(かつての講中)からなる「各支部会員」によって構成される。各支部は大きく東西南北の四地区にわかれ、北地区に小平と日野の二支部がある。前述の事例であげたA氏とB氏はこの五・六之宮太鼓愛皷会に所属している。
図6-23
図6-23
府中のくらやみ祭に参加する五、六之宮太鼓愛皷会 府中市(2010.5.5)


図6-24
五、六之宮太鼓愛皷会会所 府中市(2010.5.5)



図6-25
ササラ(竹)で通りをたたきながら歩く関東武蔵総社のメンバー 府中市(2010.5.5)


 このような小平と府中の関係の深さは、五・六之宮太鼓愛皷会の太鼓の綱を、神明宮の大太鼓の綱として譲り受けたところにもあらわれている。府中が綱を新調した際に、その綱の古くなった部分を切って、残りを小平で使わせてもらっている。府中の綱は六十メートルもあるため多少短くしても十分に使える長さがあり、譲って欲しいと申し出たところ、小平なら譲ってもよい、ということで了解を得た。小平の関係者たちは、それなりのところでなければ「お下がり」はもらえないと言う。府中は葵(あおい)の御紋のついた特別なところであり、そこから「お下がり」をもらったことを誇りにし、大変な名誉だと受け止めている。