(時間の管理)
神輿の巡行にはルールがある。神輿渡御の範囲が広く、距離も長い小川ではそれなりの工夫が必要となる。復活後の大きな変更点は巡行スケジュールである。中止期間中はトラックの荷台に神輿をのせ、各御神酒所を二時間程度でまわっていたが、復活後は朝八時四十分に神社を出発すると夕方六時十分には神社の境内へ入る。
神輿の巡行にはルールがある。神輿渡御の範囲が広く、距離も長い小川ではそれなりの工夫が必要となる。復活後の大きな変更点は巡行スケジュールである。中止期間中はトラックの荷台に神輿をのせ、各御神酒所を二時間程度でまわっていたが、復活後は朝八時四十分に神社を出発すると夕方六時十分には神社の境内へ入る。
復活後の巡幸では一部の地域は台車を使ってまわっている。これには批判もある。しかし、担いで百メートル進もうとすると台車で進む三倍の時間がかかるため、すべての経路を担ぐのは無理だとされる。同じ道の往復なら、行きに担げば帰りは台車にのせるといった工夫をしている。氏子総代が移動の距離と時間を計測し、担ぎ手の体力と時間を考慮しながら神輿の巡行方法を決め、現在のスケジュールが作られたのであった。
巡幸には警察の道路使用許可も必要になるため、時間の管理も厳しくなった。そのため、夕方六時十分までに神社に神輿を戻すことになっている。これは、四月二十九日頃の日没時間だという。このように、神輿渡御の復活後は以前のように夜通し神輿を担ぐといったことはなくなった。参道に神輿が入ると、その後は白丁以外の人が神輿に触れることはできない(図6-26)。その周りに警護係がつく。そのため、神輿を引き渡す直前は担ぎ手が一気に増える。
図6-26 神社の境内は白装束の白丁が担ぐ 小平神明宮(2010.4.29) |
神輿自体の大きさにも道路事情が反映されている。巡行経路のなかでもっとも道幅が狭いのは、神明宮を出て一番組の町会のお仮屋に向かう村山街道で、巡行経路の最西端に位置する通りである。坂北組や本町組あたりは村山街道よりもさらに道幅は狭いが、通行止めにできるため問題にはならない。通行止めにできない街道を通るときの危険性を考慮して、村山街道の片側車線をはみださない大きさになっている。
(場所の使い方)
神輿がスケジュールどおりに動くために休憩時間の場所や時間も細かく決められているが、すべてが合理的にいくわけではない。巡幸中の神輿は道路の左側を使用するため、休憩所も同じ道路に面した家が望ましいと警察に言われている。しかし、現状は昼食を含め十一か所の休憩所のうち九か所が青梅街道の北側に位置している。とりわけ、八番組の折り返し地点以降は、六回の休憩のうち四回は街道を横断して反対車線の休憩所に入らねばならない。道路からすぐに入れる広い庭をもつという条件にあう場所が、図6-20にあるように、三番と六番の二か所しかないからである(図6-27)。これは、青梅街道沿いの家の敷地の使い方が、街道を挟んで北と南で異なるためである。街道沿いには昔からの住民の家が多く、その大半は農家であったため、大抵の場合は庭先での作業をしやすくするために日当たりを考えて南側の庭を広くとる。街道の北側に面する家は家屋を敷地の奥に建て、街道側の入り口から家までの南側の空間を広くとる。そのため、神輿は街道からすぐに庭に入り休憩をとることができる。反対に街道の南側に面した家は、やはり南側を広くとるために敷地の北側、つまり街道側に家を建て、庭が奥になるため入りにくい。そのため、ほとんどの休憩所が青梅街道を横断して、北側の家を利用することになる。昼食は五番組周辺の敷地の広い個人の家の庭を、各町と睦会が借りることにしているが、間口が狭いために神輿が入らないところも多くなった。
神輿がスケジュールどおりに動くために休憩時間の場所や時間も細かく決められているが、すべてが合理的にいくわけではない。巡幸中の神輿は道路の左側を使用するため、休憩所も同じ道路に面した家が望ましいと警察に言われている。しかし、現状は昼食を含め十一か所の休憩所のうち九か所が青梅街道の北側に位置している。とりわけ、八番組の折り返し地点以降は、六回の休憩のうち四回は街道を横断して反対車線の休憩所に入らねばならない。道路からすぐに入れる広い庭をもつという条件にあう場所が、図6-20にあるように、三番と六番の二か所しかないからである(図6-27)。これは、青梅街道沿いの家の敷地の使い方が、街道を挟んで北と南で異なるためである。街道沿いには昔からの住民の家が多く、その大半は農家であったため、大抵の場合は庭先での作業をしやすくするために日当たりを考えて南側の庭を広くとる。街道の北側に面する家は家屋を敷地の奥に建て、街道側の入り口から家までの南側の空間を広くとる。そのため、神輿は街道からすぐに庭に入り休憩をとることができる。反対に街道の南側に面した家は、やはり南側を広くとるために敷地の北側、つまり街道側に家を建て、庭が奥になるため入りにくい。そのため、ほとんどの休憩所が青梅街道を横断して、北側の家を利用することになる。昼食は五番組周辺の敷地の広い個人の家の庭を、各町と睦会が借りることにしているが、間口が狭いために神輿が入らないところも多くなった。
図6-27
通りを横断せずに入れる6番組休憩所 青梅街道(2010.4.29)
(半纏合わせ)
大きな神輿を巡行させる神輿渡御には外部団体からの応援は欠かせないが、誰でもが勝手に参加できるわけではない。参加に際しては一定のルールがあり、それを共有する機会も設定されている。祭りの十日から二週間前にかけて開催される「半纏合わせ」である。大正時代には宮司は馬に乗って巡行し、役員は紋付き袴を着用する者が多かったが、神輿渡御の復活以降は全員が半纏着用となった。市議会議員選挙等で多少日程がずれることもあるが、小川では例年三月の最終日曜日に小平神明幼稚園の体育館で行われる。半纏合わせでは、各睦会をはじめ応援団体の代表者が参加して顔を合わせ、各団体の半纏を確認する。祭りの当日にいきなりあらわれて神輿を担ぐことは許されない。
大きな神輿を巡行させる神輿渡御には外部団体からの応援は欠かせないが、誰でもが勝手に参加できるわけではない。参加に際しては一定のルールがあり、それを共有する機会も設定されている。祭りの十日から二週間前にかけて開催される「半纏合わせ」である。大正時代には宮司は馬に乗って巡行し、役員は紋付き袴を着用する者が多かったが、神輿渡御の復活以降は全員が半纏着用となった。市議会議員選挙等で多少日程がずれることもあるが、小川では例年三月の最終日曜日に小平神明幼稚園の体育館で行われる。半纏合わせでは、各睦会をはじめ応援団体の代表者が参加して顔を合わせ、各団体の半纏を確認する。祭りの当日にいきなりあらわれて神輿を担ぐことは許されない。
図6-28
祭りに先だって行われる半纏合わせ。半纏を披露する神輿愛好会 小平神明幼稚園(2010.3.27)
平成二十二年の半纏合わせの様子は次のようなものであった。夕方六時に小平神明幼稚園の体育館に神明宮の宮司、大祭委員長をはじめ各役員といった氏子総代、神輿愛好会の代表、小平警察署関係者等、総勢六、七十人が集まってくる。この年の参加団体は小川睦会を含めて十八団体、約二百五十人を予定していた。会の名前が呼ばれ、半纏を着たそれぞれの会の代表者が二人ずつ壇上にあがり半纏を披露する(図6-28)。大紋(半纏の背中の紋)に「神明宮」を入れることができるのは、神社睦である小川睦会のみである。神社を支える団体であることの名誉と誇りといった意識が凝縮されている。地元以外から参加する団体の場合は、紹介者の名前も読み上げられる。紹介者には地元の団体のメンバーがなることが多い。紹介者の名前を表に出すのは、トラブルが起きた際の責任の所在を明確にするためである。
一通りの紹介が終わると、神輿渡御に際してのルールの確認がなされる。事前に配布されている「参加団体、及び個人遵守事項」の内容についての説明を受ける。新旧の半纏の取り扱いについても、「小平神明宮宮司、八雲祭大祭委員会委員長、小平神明宮小川睦会会長」の連名で出されている規約がある。それによると、半纏の貸与は原則として禁止、ただし、新会員や入会希望者に対して小川睦会会員または各支部が貸与を認めたときや、祭り体験を希望する市内の団体には、神社や大祭委員会、小川睦会、世話になる支部から承認を受けた場合は認められることになっている。さらに、神輿愛好会への半纏の貸与も原則として認められないことや、新旧半纏を着て他所の祭りに参加する場合は、睦会や大祭委員会に事前に届け出ることになっている。半纏は、八雲祭における各人の所属や位置づけをあらわす重要な役割を担っている。烏帽子(えぼし)は神社役員、えんじ色の半纏に黄の烏帽子は大祭役員、警護役は朱色の半纏に黒の烏帽子というように決められている。外部からの参加者と内部の地元団体との線引きは、このようなルールによって明確にされている。これらは当日の混乱やトラブルを避けるためである。
図6-29
進行方向に向かって左側の担ぎ棒は必ず小川睦会が担ぐ 市域中央部(2010.4.29)
さらに、参加団体(個人を含む)は事前に大祭委員会に誓約書を提出し、そこに記載された事項を遵守しなければならない。複数の項目のなかに神輿を担ぐ際のルールがある。「神輿のお先棒は小川睦会新旧半纏着用者及び神明宮氏子組半纏着用者のみ、ただし、進行方向右側の担ぎ棒一本についてはこの限りではない」とある。つまり、最も目立つ真ん中の縦の棒は小川睦会と氏子しか担げないことになっているが、平成二十年から応援団体にも開放したのだ。進行方向に向かって右側は応援団体の愛好会に開放しているが、左側に入ってくるとトラブルになる(図6-29)。右側を愛好会に開放したのは理由がある。大半の者が右利きであるため、地元の者にとっては、左側の棒を右肩で担ぐほうがバランスはとりやすい。担ぎ慣れている愛好会が右肩で担ぐと力が強すぎて、右側に、つまり反対車線側に神輿が押し出されてしまうのだ。それを避けるために、左肩で担ぐ右側の棒を開放している。ちなみに横からの割り込みも禁止で、担ぎ手は棒の後ろから前に移動していくのが担ぎ手の共通のルールである。
太鼓最上部に上がることができるのは、太鼓半纏および烏帽子を着用している小川睦会会員のみとされている。つまり、神輿や太鼓の巡行のなかで最も目立ち、皆が殺到する部分は地元が固持するという明確な線引きがある。さらに、トラブルが発生した場合は、翌年以降の祭りには個人及び団体ならびに紹介者の参加を認めないことも明記されている。
八雲祭の神輿渡御は、復活に際して人手不足を補うために神輿愛好会という外部団体を積極的に受け入れるという状況に応じた柔軟な対応をとっている。神輿愛好会は小平の住民でなければ参加できない、あるいは住民は参加が義務づけられるというような地縁に縛られた団体ではなく、加入脱退が自由な新しい組織である。そのような団体が増加し、各地の祭りの一翼を担っていることが現代の祭りの特徴の一つといえる。ただし、無条件の受け入れではなく、線引きすることで内部性をより強く意識することになる。新しい住民が増え、旧来の祭りへの関心が薄れるなかで、外部の応援団体の存在が地元意識を高めることにもなっている。
現在、小平には「小平市神社・睦連絡会」という組織がある。五年前に結成され、市内の神社とそれを支える睦会で構成されている。八雲祭に応援に駆け付ける睦会のなかで、もっとも人数が多いのは熊野宮である。
熊野宮を支える神社睦は、「熊野宮一本榎睦会」と言い、昭和六十二年九月に熊野宮が神輿を新調したことをきっかけに結成された。以後、市内の神社で神輿を新調するところが増えた。神輿を大きくしたことで担ぎ手の人数が必要となり、それまでそれぞれに祭りを行っていた仲町と喜平町、氏子町内の学園東町と学園西町の一部も含めて神輿渡御が行われるようになった。その結果、氏子町内全域を神輿が巡行するようになった。熊野宮の睦会には若い女性も多い。
熊野宮では、神輿愛好会等の他地域からの応援は依頼していない。応援を依頼するのは、「小平市神社・睦連絡会」の睦会だけである。各神社の睦会は、祭りの際はお互いに応援に駆け付ける。睦会同士はよく知っており、身内のような集まりではあるが、それでも十月の祭りにあわせて九月上旬に半纏合わせを行い、トラブル等がないように努めている。
熊野宮では平成十六年の「熊野宮御鎮座三〇〇年」を記念して大太鼓を新調した。渡御のときは、太鼓の上には四人、太鼓の台には太鼓長と総代や長老など、地元が認めた人が交代で上がり、それぞれ小豆色の太鼓半纏の着用が義務付けられている。
なお、各神社の現状と概観については第六章第一節で述べられている。