八雲祭が近づくと前夜祭までに各家で所有する灯ろうを家の前に立てる。灯ろうに貼る絵紙(図6-30)は小川睦会が販売してくれる。絵紙は睦会が業者から購入し、その絵紙と横に貼る白い紙、飾り用の花の紙を一セットにして千五百円で販売するのである。各家では「八雲神社」と書いた紙が神社のほうに向くように飾り付ける。
図6-30 家の前にたてる灯ろう青梅街道(2010.4.29) |
彼が八雲祭で思い出すのは、自身が若い頃の血気盛んな若者たちによる神輿渡御である。今とは異なり、大人四人で抱えられるほどの小さな神輿を小川の各組で渡御していくのだが、なるべく長い時間担げるようにと、なかなか神輿を次の組に渡そうとはしないのだ。当時の様子は神社に奉納されている神輿の棒にみることができる。神輿の到着を待っている次の組は、なかなか神輿を渡してもらえない場合は取りにいく。待っているほうは早く渡してもらおうと神輿の担ぎ棒を引っ張り、渡すほうは取られないように棒にのって押さえる。棒は下にさがり、地面をひきずられることになる。そのため棒の後ろは削れてしまった。
青年会の小川分団長を務めていた昭和二十三、二十四年頃の八雲祭で、神輿を翌朝までに神社に戻さなかったために、すごく怒られたことを覚えている。娯楽の少ない時代ゆえに、神輿を担いで騒ぐことは、力のあり余った若者にとってはこのうえない楽しみであったのだ。その頃は一軒あたりの子どもの数も多く、祭りのときは子どもを含めて男性が一軒から五、六人は参加していた。この男性の家がある七番組は三十数軒からなり、祭りとなると総勢百五十人ぐらいの参加者がいた。夜中まで神輿を担いで騒ぎ、酔っ払うと近くの家で寝こんでしまう若者も多かった。若者が寝てしまうと担ぎ手がいなくなる。そのような場合は、そこの責任者四人が神社に神輿を戻すこともたびたびあった。現在の神輿のように大きなものではなく、前述したような小さな神輿だったからこそ可能だったエピソードである。これ以外にも、警察のパトカー(当時はジープ)に神輿の棒を突っ込むという騒動もあり、田無警察署(小平警察署の開署は昭和二十三年三月七日)で始末書を書かされたこともあった。
戦時中は中止されていた青年会の活動は終戦後に復活した。しかし、彼が青年会の分団長を退いて間もなくして、「時代にそぐわない」という理由で青年会が小川の神輿渡御の中止を決定した。彼は、その頃から徐々に若者たちの考え方も変わってきたのだと思っている。
昭和五十年の神輿渡御の復活に際しては、従来のやり方に変更と工夫を凝らしている。氏子として誰が参加するか、という点も問題となった。これは祭りに参加するだけではなく、氏子として神社を支えることを意味しているからである。七番組は旧来の住民だけで参加することになったが、別の組では新しい住民も参加することになり、参加世帯が三十数世帯から八十世帯にまで増えたと聞いている。しかし、寄付が必要なことも多々あり、全員が神社のことに継続的にかかわることは難しいようで、やはり以前からの氏子であった住民が主体となったようだ。
現在の大きな太鼓も昭和五十年に作られたものである。「神明宮御鎮座三四〇年」にあたる平成十二年には、氏子と小川睦会を中心に奉賛会が結成され、大きな神輿が新調された。神輿や太鼓の大きさは地域のシンボルでもある。小川ではこの大きな神輿を作ったときに、神輿渡御の移動にかかる距離と時間を計測して、現在活用している神輿運行スケジュールを作成した。日没までに神社に戻るようにと警察からの指導があり、運行スケジュールを厳守している。神輿が神社に戻れば、警察の役割は終わる。警察から道路使用許可をもらうのが大変な時期もあった。大祭委員長を務めたときには、小平警察署からすぐには許可が下りずに苦労した。
祭りをはじめ、青年会の仕事は地域において重要な位置を占めていたが、なかでも分団長の責任は重く、なかなか引き受けてくれる人がいなかった。だからといって、断られたから別の人、という頼み方をしてはいけなかった。それでは次に頼まれる者のプライドを傷つけることになる。最初から一人に絞り、週に三、四回夜に数人で説得に行く。「ゆるり(囲炉裏のこと)」の周りで、落花生を炒りながら話をして説得を続け、ようやく了解してもらうのであった。