ここでとりあげる昭和六年生まれの男性は、武蔵野神社の氏子総代で、かつて小平青年会野中分団の一員であった。子どもの頃の環境は今とはまったく異なり、戦前は現金収入といえば養蚕であった。野菜を作るようになったのは戦後である。以前は蚕を「おかいこ様」と呼ぶほど大事にし、家のなかに蚕の臭いがしていた。しかし、戦時中に桑畑は国の政策でさつまいも(川越イモ)や麦の畑に変えられた。
十五歳から二十四、五歳までの農家の男女は青年会に加入したものだった。青年会の活動で知り合って結婚する人もいないわけではなかったが、やはり見合いが多かった。「橋かけ」をしてくれる人を「ぞうりっぺらし(草履減らし)」と呼んだ。両人の仲をとりもつために草履を減らすほど働いてくれる人、という意味である。ぞうりっぺらしが仲人をすることもあるが、仲人は別の人に頼むことが多かった。
当時、青年会は比較的財源が豊かで、公会堂の修理費用を自分たちで賄ったこともある。祭りは戦時中にも開催した記憶がある。昭和二十二、二十三年頃には青年会主催で西多摩郡二宮(現、あきるの市)から素人歌舞伎をよんだ。芝居をよぶために二万円の経費とそれ以外の必要経費が多少かかったが、八万円ちかくの祝儀を集めることができた。ちょうど都議会議員の選挙があったばかりで、住民も熱気がおさまっておらず、そういう選挙の余韻が残るときに寄付集めをするとたくさん集まるのだ。選挙活動では青年会も応援したが、同時に青年会は都議会議員選挙をうまく利用したともいえる。
小平の各地区のうちもっとも広いのは小川で、次が野中であることから、野中はなにかにつけて小川を意識していた。たとえば祭りに登場する神輿や太鼓にしても、その大きさは気になるもので、小さな神輿では小川と較べられたときにメンツがたたない。さらに、都市部との距離も重要で、野中のほうが小川よりも東京に近いぶんだけ都会だと話したものだった。ちなみに、当時は「マチに行く」と言えば、田無や立川、所沢のことを指し、新宿あたりまで行くことは「東京見物に行く」と言った。
武蔵野神社の氏子は現在三百二十五軒、数にそれほど変化はない。睦会は神社を盛り上げるために数人の有志が始めたもので、平成二十二年で三十二年目になる。天神町、野中東、野中北、花小金井で順番に当番を務め、祭りの際の神社の境内の出店や出し物はすべて睦会が担当する。太鼓はあるが、騒音の苦情がきて十年以上前からたたいていない。