戦後の小平は、宅地化によって流入してきた新しい住民の急増で生活環境や暮らしぶりが大きく変わる。特に昭和三十年代以降の暮らしぶりの変貌は目覚ましいものがあった。そのなかで新しい小平を象徴する一大行事として「町民祭」、小平市誕生後は、昭和五十一年から「市民まつり」が始まった。町報(昭和三十七年十月からは市報)には、住民の日常生活に直結する話題が掲載されており、当時の小平において皆で共有すべき情報や課題はどのようなものであったのかを知ることができる。たとえば衛生環境をめぐる事柄は、暮らしが変わるなかでそれまであたりまえであったものやことを、不快や不潔なものとして捉える感覚が浮上する。さらに、社会教育活動や団体のあり方には新住民が新たな地縁を求める動きがあらわれる。町報の多岐にわたる事柄から新しい暮らしの模索がみてとれる。
昭和二十年代から三十年代にかけては毎年のように赤痢が流行している。昭和二十八年には全国的な大流行となり、小平での発生要因として「井戸があるにもかかわらず小川で食器を洗っている」「共同井戸がこわれていて汚水(洗濯等の水)が流れこんでいる」「便所から出たとき、外出から帰ったとき手を洗っていないこと」が指摘されている。その対策として川や井戸での食器洗いや共同井戸での洗濯方法に対する指導がなされているが、このような要因が指摘されるのは昭和二十年代までである。このあと昭和三十年にも毎年のように赤痢の流行に対する諸注意が出てくるが、多くが食べ物や飲み物に気をつけ、手の洗浄をすること、という指導へと変わる。衛生観念の徹底がなされると同時に、川から井戸、井戸から水道へと使用する設備が整備されるにともない、病気を防ぐ衛生管理は個人の日常における意識を変えることへと移行し始めたといえるだろう。
昭和二十八年ほどではないにしろ、前年にも赤痢が流行っており、昭和二十七年三月二十一日の朝日新聞には「神信心で赤痢を治そうとする゛神信心″で一家四人が赤痢「真性」と気づき大あわて」という記事が掲載されている。記事は、子どもが病気になった際に神信心で治そうとした結果、家族四人が赤痢に感染してしまったという内容であった。すべての家がこのような対処をしたとは思わないが、身体の不調が生じた際に、病院よりも先に神への祈願という対処法が当時はごく自然にとられていたことがわかる。
衛生観念ともかかわるねずみ駆除や便所の消毒も欠かせなかった。行政による公的なサービスが整うまでは、それらの仕事は、青年会が地域への奉仕として担うことが多かった。かつて青年会の一員であった野中の住民によると、昭和二十年代後半の頃、畑の野鼠(やそ)駆除のための冬の薬まき、便所の消毒、道路の整備等を経験している。野鼠駆除は、畑にもぐらが穴を掘るとそこからねずみが入り作物の根を切って荒らしてしまうので、それを防ぐための作業であった。便所の消毒は六月から八月にかけて一週間から十日ごとに噴霧器で薬をまいていた。当時は外便所が多くまきやすかったが、なかには屋内に便所をもっている家もあった。その場合は小さな窓が下のほうについており、そこから噴霧器をつっこんで薬をまいていた。道路の整備は、穴がぼこぼこ空いていた道路に砂利を入れてならしていくというものであった。砂利はつるべ井戸を掘る際に出てくるものが利用された。
私的な所有物でありながら公共空間にかかわる畑にも、住民の衛生観が反映されるようになる。昭和三十四年の町報(九月一日)には「くみ取料はくみ取券で」というお知らせが掲載されているのだが、それによるとくみ取り申込数五千九百一世帯の約半数しかくみ取り券の回収ができていないこと、つまり現金での支払いがなされており、トラブルの原因になるのでやめて欲しいという内容であった。当時の小平町の全世帯数は九千五百五世帯であったことから、約六割の世帯がくみ取りを町に依頼していることがわかる。残りの四割の世帯は現金での支払い、あるいは自ら消費していたこと、つまり畑の肥料として利用されていたことが推測される。というのも、三年後の町報(一月二十五日)に「十年後の小平を思う」と題した一般市民から募った論文コンテストの一席入選論文が掲載されており、そのなかに今後の改善点として、「衛生面では、今日旧態依然として存在するふん尿そう(俗にいう肥えだめ)を廃止し、住宅地に面する畑にはぜったいふん尿を散布させないよう措置を講じて欲しい。また、土地の慣習上、難点もあると思われるが土葬の禁止も必要と思う」とある。著者がどのような人であるかは不明であるが、小川町一丁目の住人であることから、付近に畑の多い環境のなかで日々問題視していたことを指摘したものと思われる。少なくとも畑の肥料としてのふん尿に対して不快感や拒否感が生じ始めた時期だといえる。子どもが肥溜めに落ちる事故も問題化しており、昭和四十二年の市報(七月五日)でも、市内の道路の側に散在する約三十か所の肥溜めに柵や蓋をすること、あるいは不要な肥溜めは埋め立てるようにという指導がなされている。農家にとっても、農業のやりかたを再考する時期であったようだ。