家庭や労働を見直す

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 労働や家族生活においても変化が表面化し始めている。昭和二十八年には「農家の婦人は過重労働」と題した記事が町報(五月二十五日)に掲載された。農家の生活の改善モデルが提唱され、煙たいカマドや粗食、身体を構わないことに対して改善運動が推進されている。記事には「働きよい台所の一例、一万円あればできます」といった宣伝文句と写真も掲載されている(図6-31)。女性が多くの時間を過ごす台所の改善は、時間の合理化をはかり、余暇時間を生み出すことを奨励するものであった。

図6-31
生活改善モデルの一例(『小平町報』第11号、1953.5.25)

 昭和三十五年一月からは農休日が実施されるようになった。前年度の町報(十二月一日)で、労働過重を防ぎ、健康を維持し生活改善をはかるために、生産組合長会議、農業協同組合、農業委員会が相談し、毎月第一、第三日曜日を農休日とすることが周知され、さらにこの休日は「ものび」とは異なること、「ものび」は縮小するように、とある。「ものび」とは祝い日でこの日は仕事を休むことが多かった。同業者全体で社会の変化に対応していこうとする様子がわかる。

図6-32
公民館活動の様子(『小平市報』第84号、1966.3.20)

 昭和四十年代になると、青少年の非行や犯罪が小平だけでなく東京都全体で社会問題化し始め、「青少年を守る」運動の一環として地域でも「家庭の日」を設けることを提案する記事が市報に見られるようになる。「毎月第二日曜日 家庭の日です」という表記が市報に毎年登場し、「家庭の日」にちなんだ作文コンクールも開催されるなど、家庭内での積極的な発言を奨励する運動が推進されていた。同じ頃、公民館でも「集会技術講座」が開催されている(図6-32)。これは家庭内ではなく人前で話すための技術を磨き、効果的な集会運営の方法を学ぶ講座であった(「市報」昭和四十一年三月二十日)。その記事によると、当時の小平の十万七千人余りの人口のうち、生え抜きの市民は一万五、六千人程度と推定され、大半の市民が他府県や東京二十三区内から移り住んできた者であった。それゆえに市民意識を形成するために公民館を介した様々な活動が奨励され、多くの市民サークルが立ち上げられていく。しかも、このときの「集会技術講座」の受講者は三十歳代を中心にした女性ばかりであった。明らかにこれまでの農家の女性の生活スタイルとは異なる暮らしぶりが見えてくる。男女ともに人前で話す機会が増加することを示すように、公民館の青年文化教室では、「生活を豊かにし、すばらしい人間関係をつくる話し方、日常会話など」を学ぶ「話し方」の講座も開講されている(「市報」昭和四十五年七月五日)。どれくらいの人数が受講したかは定かでないが、このような講座が開講されること自体が、知らない者との接触が増えていくなかで、他者とのより円滑なコミュニケーションを評価する風潮をあらわしているといえよう。家族間のみならず第三者との会話を介したつきあいは、学校や行政が後押しする対象、つまり社会的な課題となりつつあった。
 そんななかで新旧住民の人間関係のあり方やしきたりの相違からくる両者の溝は、当事者だけでなく行政側にとっても大きな課題であった。昭和四十年に喜平町の住宅公団小平団地への入居が始まると、市の人口は十万人目前となる(「市報」昭和四十年三月二十日)。前述したように昭和四十年五月には十万人を突破し、小平は東京のベッドタウンとして発展を続けていた。入居者の一世帯あたりの家族数は平均三人とされており、夫婦と子ども一人という家族構成は、当時の農家の暮らしぶりとは大きく異なっている。小平団地の記事には「ガス、水道も完備」とあり、特記されるほど入居者にとっては魅力的な条件であったことがわかる。裏を返せば、すべての家でガスと水道が完備されているわけではなかった、ということになる。
 二年後の昭和四十二年には小平市長と住民の座談会が催され、そのときの様子が市報(五月二十日)に掲載されているのだが、そのなかで「地元の人と転入者との融合」が話題となっている。その際に、婦人会や青年団、消防団といった既存の組織への勧誘が一つの方策としてあげられていたが、既存の組織への入りにくさも言及されている。既存の組織よりも、新旧住民の両方が抵抗なくかかわれるような組織やイベントの登場は自然なことだといえるだろう。小平の住民にとって最大のイベントである町民祭や市民文化祭、市民体育祭、公民館活動は両者を結びつける機会となることが期待されていた。