市民まつり誕生の経緯

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 町報によると、既に昭和二十六年十一月二十日から二十三日にかけて「町民祭」が開催されていた。当時は文化展、産業展、体育会の三部会に分かれていた(図6-33)。文化展と産業展は二十日、二十一日にかけて開催され、前者は公民館や役場を会場として郷土史家による各種資料や詩歌や書画等が、後者は町の主要産物である農産物の出品と即売等が行われた。体育会は二十三日に中学校の校庭で開催され、なかでも仮装行列が人気を博したとある。このように、町民祭は「この行事の基本的な計画は公民館が担当して、町民の皆様は夫々特技特能を生かされ、又各種団体各学校各事業所等も其の特質を発揮して参加されました(略)(「町報」昭和二十六年十二月十五日)」とあり、町をあげて盛大に始まったことがわかる。当時の小平町の人口二万三千八百六十八人(同年十一月一日現在)に対し、体育会参加人数は二千人、観覧者数は五千人、文化展出品点数二千二百八十点、産業展出品点数八百六十七点であった。体育会に出場あるいは観客として参加した人数だけをとっても、町民全体の三分の一ちかい住民がかかわったことになる。

図6-33
町民祭での民謡流し 仲町(小平市立図書館所蔵 1959.5)

 その後、昭和二十八年には文化展と産業展が十一月二十日過ぎに開催されるのに対し、体育会だけは寒さを考慮して時期を早め、十一月十五日となった。町民体育祭は昭和三十一年から三年間は中止されたが、昭和三十四年には復活している。このときから体育会の開催は春に変更され、五月上旬に開催されるようになった。一日で終わるのではなく、競技によって日程が異なり、五月三日~十七日という実に長い期間で開催された。
 第三回の町民文化祭からは文化展覧会と産業展覧会、体育会の種目の詳細が町報に掲載されている。なかでも、産業展覧会は農業地帯としての小平の特徴を示している。産業展覧会は「農産物品評会」「農業資料展示会」「農業相談所」「町内産業展示即売会」に四区分される。各区分の中身は以下のようになっていた。
農産物品評会:主要食糧、蔬菜、果実花卉、農産加工品、鶏卵、小家畜、苗木、その他参考品
農業資料展示会:農薬と病虫害、西瓜・トマトの栽培技術、農家生活改善に関するもの、花卉栽培法、機械化農業、有畜農業、肥料
農業相談所:農事相談町内産業展示即売会:農業協同組合関係、商工会関係、各事業所営業所関係

 農産物品評会のなかでも蔬菜(そさい)は種類も多く、小平で生産される野菜の傾向がわかる。農業地帯の小平らしく農業従事者にとってより身近で参加しやすい工夫がなされていたともいえよう。さらに、農業資料展示では「農家生活改善に関するもの」として、食品加工や保存食、衣服の改善、作業改善等があげられている。ちょうどこの頃は、前述したように農家の生活改善や新生活運動が展開され始めた時期と重なっている。町民文化祭には農家の日常生活が反映されていた。そして、農業従事者以外の人々や生活改善によって余暇時間を生み出した住民がその成果を文化展覧会へと出品することになる。