学園坂商店会

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 ここでは、新住民によって形成される学園坂商店会の活動をとりあげる(図6-38)。西武多摩湖線の一橋学園駅の前の学園坂通りには二つの商店会がある。駅に近いほうから坂の下方に向かって通りの中頃までが学園一番街商店会(上(うえ)と呼ばれる)、通りの中頃から坂の下までが学園坂商店会である。学園坂商店会が結成されたのは昭和四十四年である。同商店会については、昭和五十五年に小平商工会の「小平商工会だより」第三十四号に書かれた一文がある。それによると同商店会の特徴は、土着の人がいないこと、商店主の年齢が非常に若いこと、その彼らの観点から経営や販売等の改善や推進に取り組んでいたことがあげられている。同様に、昭和五十六年の「小平商工会だより」第三十七号には学園一番街商店会の様子が、次のように記されている。「昭和三十二年頃の当時の小平市は、小川駅・花小金井駅・小平駅周辺の商店街に比べ一ツ橋学園北区は大変に遅れている淋しい商店街でしたが、時の流れと共に現在では市内随一の繁華商店街地区に変貌して来ました」とある。二十年の間に学園坂商店会と学園一番街商店会の通りは、市内で最も賑やかな場所へと変貌を遂げ、なかでも新住民によって形成された学園坂商店会はその特徴をよくあらわしていた。
図6-38
図6-38
学園坂商店会のある学園坂通り(2011.2.22)

 二つの商店会は同じ学園坂通りにあるが、イベント等の開催は別々に行っている。学園坂商店会ができると一気に店舗数が増加し、平成十年から十五年頃の最盛期には、同商店会には七十八軒の店があった。以前は一階を店舗、二階を住居とする人が多かったが、現在は商店会に住んでいる人は三分の一程度になった。総菜屋、手芸店、金物屋がなくなり、商店会の店舗で二代目を引き継いでいる店は三軒しかない。それでも他の商店会に比べると結束力は強く、新しいことにも協力して取り組んでいる。昭和四十四年に学園坂商店会ができたときは街路灯をつくり、店の大きな看板も撤去し小さな統一された看板に替え、いち早く景観に考慮した。
 商店会は平成五年に振興組合に変わった。振興組合は五十軒以上の加盟が必要とされ、組合になると東京都から補助金が出ることになっている。その後、平成十三年には再び任意団体の商店会に戻り、三十数軒が正会員となった。このように、学園坂商店会では、そのときの状況に応じて組織のありかたを柔軟に変え、合理的に対処している。
 商店会の会長を務める男性は大阪生まれで戦時中に新潟に疎開したが、受験のために上京し、昭和四十二年に現在の場所で寝具店を開いた。彼は小平に住み始めてから十五、六年間、早朝野球の理事長を務めたこともあった。当時は早朝野球が盛んな時期で参加者も五百人ぐらいいた。野球チームも十六チームあり、そのうち七チームは商店街が中心となって結成されたものであった。飲食店の常連客で作るチームもあったようだ。参加者の大半はサラリーマンや自営業者で、農作業の都合で夜しか参加できない農家の人はほとんどいなかった。グラウンドも自衛隊、沖電気、萩山、小川、小川東、丸井等、十か所あり、早朝から練習していたが、徐々に周囲に住宅が建ち、日曜日の早朝からの練習はうるさいという苦情が寄せられ、現在は平日の早朝に行うようにしている。このように、第三次産業に従事する者が増加するなかで、彼らの生活リズムにあった活動が盛んになっていった。
 商店会の変遷だけでなく、寝具店の品物の動きも時代とともに変化してきた。店を構えた当時、この店では顧客は新しい住民が大半で、農家の人に布団を売ったことはなかった。小平の農家の二男三男は農協に就職する者が多く、大半の農家は農協で買い物をしていたからだ。ところが、最近では農協も布団や日用品の取り扱いには以前ほど力をいれなくなったようで、その結果、彼の店には農家の顧客が増えてきた。