(福島県人会)
福島県人会の会則には、「親睦をはかるのを目的」とし、入会資格も「福島県出身者およびその縁故者又は小平市在勤者で本会の趣旨に賛同する者」とあり、間口の広い会であることがわかる。さらに同会は、東京福島県人会の小平支部となることも会報に明記されており、郷土意識でつながった広いネットワークづくりが積極的になされている。
福島県人会の会則には、「親睦をはかるのを目的」とし、入会資格も「福島県出身者およびその縁故者又は小平市在勤者で本会の趣旨に賛同する者」とあり、間口の広い会であることがわかる。さらに同会は、東京福島県人会の小平支部となることも会報に明記されており、郷土意識でつながった広いネットワークづくりが積極的になされている。
年間の活動は「昭和五三年度行事計画(案)」をみると、花見、定期総会、秋の総会、ぶどう狩り、市民まつり参加、娯楽同好会、福祉祭参加、会報発行、青年交歓会、婦人料理講習会、会員名簿の発行、その他となっている。市民まつりには一回目から参加し現在まで続いている。娯楽同好会は昭和五十五年に「県人会野球チーム」が結成されており、この頃から同県人会の活動は、花見やぶどう狩りといった大型行事から、日常的な行事を充実させるために野球や囲碁等の各種のクラブ活動に力を注いでいることがわかる。これもまた小平市民が昭和四十年代以降、公民館活動をとおして様々な活動を展開していく時期と重なっている。
会報には「小平市に住む福島県人」といった市内で活躍する人物紹介の欄や、福島県人に関連する市内のニュース、福島県内のニュースが掲載されている。そのなかに「わたしのふる里観」と題した投稿文がある。そこには小平市に住んで十余年になる人が、「都会生活の中で友人をもとめ、知人をふやしていくことはなかなか容易ではない。(略)これを切り開いて行くのに、県人会はまことに当を得た場所だと思う。第二のふる里、小平市を愛していく源泉になるのだ。(昭和五一年春季号)」と書いている。新住民が新たな地縁を求める気持ちがよくわかる。
同郷意識を軸に仲間を求めるときに、言葉は重要な要素であった。発足当時の会報の会長挨拶の見出しは「良友を得る契機に お国なまりが親近感」とある。発足から三年後の会報にも「方言を自由に、自信をもって話し合える県人会。気楽に話し合おう(昭和五二年春季五号)」という一文や、昭和六十年にも「方言を誇り、愛そう」という記事がある。この頃までは、出身県での生活経験がある人たちが共有する郷土意識の表れとして、方言を意識していたと思われる。東京や東京近郊で生活するうえで、それまでの環境との違いをまっさきに意識せざるをえなかったのが言葉であったともいえるだろう。
しかし、世代が変わると会員の意識も徐々に変化していく。平成元年の会報には「小平こそふるさと」、県人会の存在理由は「ふるさとの誇りを思い出すとともに「小平市民として親睦を深め合うため」(平成元年春季号)」だと明記されている。それは、小平での生活に馴染んだことを示すと同時に、県人会としては新たな課題を抱えることでもあった。福島県に関していえば若者と女性の参加が少なく、会の存続が大きな問題となっている。県人会の存続は指導力のある献身的な人物がいるかどうかにかかっていること、つまり継続が約束されている会ではないことは現在の会員も意識している。活動が日曜日に集中することから、若い世代で商売をやっている人は活動しにくく、入会する時期は引退後が多いのが実情のようだ。
新旧住民の間の心理的な壁を以前ほど感じることはないが、やはり選挙になると「土地持ちの人(昔からの住民)」で固まる傾向にあるという人もいる。県人会は、市議会議員選挙に同郷の人が出るときに、応援のために結成された会が契機となっていることが多かった。この背景には、昭和四十年代は市議会議員を選出するときにも、一番方、二番方というように各地区で候補者を出していたということがある。たとえば一番方には八百人程度おり、候補者は必ず当選したという。それほど昔からの地元住民の結束力は強かった。新住民と旧住民との間に目に見えない壁があり、選挙時になると旧住民の強固な地縁が浮上するという経緯があったようだ。県人会結成は同じ出身県を介した親しいつながりを希求するだけでなく、旧来の地元住民の結束に対して、個ではなく集団で対抗していくための方法であったといえそうだ。選挙は集団の結びつきを確認し強調する機会であったのだろう。その結果、これまでに岩手県、長野県、新潟県、山梨県、秋田県の出身者が市議会議員となっている。このような経緯で結成された県人会であるが、現在は会員が楽しむサークルとして継続している。
(県人会連合会)
規模の大きな福島県人会は、平成二十二年度の時点で百人から二百人程度の会員がいるが、他の県人会の会員数はこれより少なく、会の規模は縮小傾向にある。どの県人会も若い会員が減ってきており、会自体の存続が課題となっている。福島県人会報の昭和六十一年春季号には、「連合県人会が一〇周年」とあることから、昭和五十一年に現在の県人会連合会が結成されたことがわかる。横のつながりができるとどの県もやめにくくなって継続するだろうと、当時の新潟県人会の会長が提案したものであった。各県人会は市民まつりや福祉バザーで出身県の産物を販売する等の活動を行い(図6-40)、会のチラシを配布して会員の勧誘もしている。連合会は二月に、各県人会は四月から五月にかけて総会を開くことになっており、県人会によっては市長や市議会の議長をよぶところもある。
規模の大きな福島県人会は、平成二十二年度の時点で百人から二百人程度の会員がいるが、他の県人会の会員数はこれより少なく、会の規模は縮小傾向にある。どの県人会も若い会員が減ってきており、会自体の存続が課題となっている。福島県人会報の昭和六十一年春季号には、「連合県人会が一〇周年」とあることから、昭和五十一年に現在の県人会連合会が結成されたことがわかる。横のつながりができるとどの県もやめにくくなって継続するだろうと、当時の新潟県人会の会長が提案したものであった。各県人会は市民まつりや福祉バザーで出身県の産物を販売する等の活動を行い(図6-40)、会のチラシを配布して会員の勧誘もしている。連合会は二月に、各県人会は四月から五月にかけて総会を開くことになっており、県人会によっては市長や市議会の議長をよぶところもある。
図6-40
市民まつりに出店した各県人会のブースの幟 (2009.10.18)
市民まつりに出店した各県人会のブースの幟 (2009.10.18)
連合会では毎年五、六月頃に「ふるさと旅行」と称して参加者を募集し、大型バス一台で一泊二日の旅行に出かける。行き先は当番県の県に行くことが多いが、近場で日帰りの旅行になることもある。当番県は福島、山梨、秋田、岩手、長野、栃木、青森、新潟と順番を決めている。さらに平成八年から始まった地域功労賞にも連合県人会から三人が表彰されるようになる等、かつての新住民が地元住民として根づいてきたようだ。
しかし、このような活動が負担になって連合会に入らない会もある。富山県人会もその一つである。市民まつりや福祉バザーは準備が大変なうえに、連合会に入ると他県と同様の活動をしなければならないが、会員の高齢化も重なり、活動の継続は簡単ではない。活動が困難だということで群馬県人会はなくなり、山形県人会も市議会議員選挙のときに結成されたが会は続かず、以前はあった島根県人会も続いていない。