小平で生まれ育ち、青年会の会長を務めた経験のある昭和十二年生まれの男性を例に、その活動をみてみよう。六人兄弟の長男で弟が三人、妹が二人いるが、青年会と青年学級に入っていたのは長男であるこの男性と、学校卒業後に家で仕事を手伝っていた上の妹だけであった。二男である弟は会社勤めをしていたため、加入していない。小平青年会に入会したのは二十歳の頃であった。妻は三人兄弟の末っ子で、青年会も青年学級にも入っていたが、兄と姉は青年学級には入っていなかった。女性の場合は学校卒業後に入会する者もいたようであるが、結婚するとやめていった。結婚以降は女性が外に出かけることは少なくなる。
青年会は小川分会、小川新田分会、鈴木新田分会、野中新田分会、大沼田新田分会、五字分会の六分会で構成されていた。小川の範囲は広く一番から八番までに分かれてはいたが、分会として一つの組織であった。青年会活動は誰でも入ることは可能だが、勧誘してもなかなか入ってこない。元々は旧村にあるものであり、それぞれの区域で結束しているという感じがあるためか、新しく小平の住人となった人が入ることには抵抗があるようだ。
青年会に入るのは、中学校や高校を卒業し、農業に従事している人が大半であった。農家の跡取りの長男は百パーセント加入したが、二男以下は自由であった。農業従事者以外では大工や水道関係の仕事など、地元で仕事をしている者も加入した。青年会は大雪のときに子どもの通る道の雪かきや、夏は便所のハエが増えるのでハエ撲滅活動等、生活に直結した活動を行っていた。青年会には体育部や産業部があり、体育部は青年会対抗の運動会を開催する等、他の分会と交流があった。これもまた他の地域の男女が知りあう機会であった。なお、現在の産業まつりはもとは青年会の農作物の品評会であり、農家の人が大勢やってきた。
彼自身は昭和三十七年の市制施行後に青年会長をやめたのだが、その後、昭和四十年頃には会自体がなくなった。昭和三十年代に新しい住民が急増し地元の様子が変わっていき、娯楽も増えたことで、青年会への加入者が減っていく時期と小平の青年会がなくなっていく時期が重なっていたと記憶している。
(消防団)
農家の後継ぎの男性が入る組織として消防団もあった。かつては一世帯から一人が出ることになっていたが、機械化が進んだ結果、十五人程度で構成されるようになった。加入できるのは三十五歳までであった。小川は広いので二地域にわかれ、その当時は一分団二十人という人数制限があった。団に入るには現役の団員が勧誘し推薦することになっていたが、候補者が多い時は消防ポンプの場所から近い所に住んでいる人が選ばれた。いざというときの活動の迅速さを考えると、どの地区でも同様の傾向にあったようだ。三十五歳のときに分団長を務め、このときに新しい住民も入れようと努力し勧誘もした。地区によっては、新しく小平の住民になった者だけでなく、昔から住んでいる住民でも大きな街道に面した家の者でなければ消防団のメンバーにしないという暗黙の了解事項を持っているところもあったほど、小平は地元意識の強い地域であった。
農家の後継ぎの男性が入る組織として消防団もあった。かつては一世帯から一人が出ることになっていたが、機械化が進んだ結果、十五人程度で構成されるようになった。加入できるのは三十五歳までであった。小川は広いので二地域にわかれ、その当時は一分団二十人という人数制限があった。団に入るには現役の団員が勧誘し推薦することになっていたが、候補者が多い時は消防ポンプの場所から近い所に住んでいる人が選ばれた。いざというときの活動の迅速さを考えると、どの地区でも同様の傾向にあったようだ。三十五歳のときに分団長を務め、このときに新しい住民も入れようと努力し勧誘もした。地区によっては、新しく小平の住民になった者だけでなく、昔から住んでいる住民でも大きな街道に面した家の者でなければ消防団のメンバーにしないという暗黙の了解事項を持っているところもあったほど、小平は地元意識の強い地域であった。
消防団の活動には積極的に参加する若者が多かった。サラリーマンは日曜日が休みであるが、農家の休日は盆と節供のときぐらいで、男性でも外出の際には家族に気を遣うことが多かった。そのなかで青年会や消防団の活動は外出しやすく、なかでも消防団は社会奉仕の意味もあって家族も快く送り出してくれた。同世代の者と集うこのような活動は、地域への奉仕と同時に、大切な社会教育の場であり、楽しみの場でもあった。
(青年学級)
小平は社会教育が盛んなところで青年学級もその一環で始まった。そのため、市の職員が活動にかかわり、活動を軌道にのせるために地元の若者を青年学級に勧誘していたが、その職員だけが勧誘してもうまくはいかない。そこで、青年会の会長をはじめ、役職者が青年学級づくりを手伝うことになった。その背景には、青年会の活動にも新住民を取り込み一緒に活動させよう、交流しよう、という目的もあった。
小平は社会教育が盛んなところで青年学級もその一環で始まった。そのため、市の職員が活動にかかわり、活動を軌道にのせるために地元の若者を青年学級に勧誘していたが、その職員だけが勧誘してもうまくはいかない。そこで、青年会の会長をはじめ、役職者が青年学級づくりを手伝うことになった。その背景には、青年会の活動にも新住民を取り込み一緒に活動させよう、交流しよう、という目的もあった。
青年学級は学校を卒業した者が対象で年齢制限はない。ペン習字、コーラス、写真等の教室があり、中学校(当時は小平第一中学校の一校だけ)の教室を借りて活動した。夜七時頃から二時間程度、教室に男女三十人程が集まるのだが、そのうち半数以上が青年会のメンバーであった。
しかし、青年学級を続けることは大変だった。各種教室を作ったり、各教室間の交流を深めることが重要だということで、代表者が集まり「青年学級連絡協議会」を作ったりもした。都内で一泊の研修を行ったこともある。教室での勉強だけでなく、集まって交流することの意義を考えるといった研修もあった。ちなみに東大和市は青年会をやめ、それを含めてすべて青年学級に変更した。東大和市の青年学級は女性の長もいたが、小平には女性の長はおらず、青年会は男性中心であった。一般に女性は男性よりも家を出ることが難しく、とくに農家の女性は、結婚後は青年会にも青年学級にも参加しなかった。サラリーマンの場合は、青年学級に夫婦で参加する人もおり、その点は農家との大きな違いであった。
青年会には農家の跡取りが多かったが、青年会にいた人がすべて青年学級にも入ったわけではない。青年会のメンバーを青年学級に誘っても尻ごみし、コーラス等の活動を恥ずかしがる人もいた。どちらかというと保守的であった。都営住宅にいた同級生には、彼が声をかけて誘う等、新旧住民が交流する機会がもてるよう模索した。青年学級は新しい組織として新しいことに取り組んだが、新旧住民の間には目に見えない壁があったようだ。
青年学級に限らず、新旧住民の間の壁はことあるごとに浮上した。彼が五十歳の頃、商工会の役員を務めていたときのこと、役員を決める際にも、「地元の人がやっていることだから」と言って、新しい住民は役員になりたがらないことがあった。以前からの住民も「地元の人のほうがいい」という意見であった。理由をはっきりと言葉にすることは難しいが、他所から小平に移ってきた人からみると、旧農村部で土地を持ち広い敷地のなかで大きな家に住んでいる人がうらやましい、といったこともあるかもしれない。実際は古くからの住民も土地を維持するために苦労しており、生活もけっして華美ではないが、周囲からみるとそう見えるのかもしれない。小平に住んで既に二十年以上経っている人でも感情的な壁を取り除くことは難しかった。最近になってようやく両者の壁がなくなってきたようだ。