女性からみた小平の暮らし

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 ここでは小平で生まれ育った昭和十六年生まれの女性と、その友人で東京市内(当時)で生まれ育ち、結婚後の昭和三十五年に小平に移り住んだ昭和七年生まれの女性の活動をとりあげたい。
 ここでとりあげる小平で生まれ育った女性は、青年会の活動にはかかわっていないが、姉や兄の活動を見聞きして育ち、地元の変遷に詳しい人物である。彼女が小さい頃(昭和二十年代)までは、家のすぐ近くに「東小平」という西武鉄道の駅があった。昭和十七年九月に開業し、昭和二十九年には廃止されたためあまり覚えていないが、母や祖母からよく話を聞かされた。東京の新宿方面とつながっており、小平まで飼料となるふん尿が運ばれ、「溜め」に貯められ、分配されていたようだ。当時の小平は住宅が少なく飼料に必要なふん尿の量をまかなうことができず、都会から運ばれてくるそれに頼っていたのであった。今では東小平駅のことを知っていると周囲に言うと、「小平の人だ」と言われることもある。
 小学校時代は三年生までは分校、四年生からは本校に通い、小平第二小学校を卒業した。中学は一校しかなかったため、同級生をほぼすべて知っている。この小さい頃からのつながりが、日常生活のふとした場面で顔を出す。たとえば、結婚すると嫁は神社の氏子宅へ挨拶にまわるのだが、武蔵野神社の氏子であった彼女は、氏子の数が多かったため同じ町内の氏子宅だけを母親といっしょにまわった。一方で、嫁ぎ先が熊野宮の氏子であった友人は、姑と一緒に各氏子宅をまわった経験がある。友人はそれが嫌で仕方がなかったのだという。知り合いの家をあたりまえの慣習としてまわった地元育ちの彼女と、初対面の家々を戸惑いながらまわった友人では緊張度も納得度も異なるのは当然であろう。
 小平には田んぼがなく、畑で小麦を作ることが主流であった。彼女は小麦を「陸のお米」と呼ぶ。小麦を原料とするうどんは小平を代表する食べ物である。冠婚葬祭の「人寄せ(人が集まること)」のときには最後に必ずうどんが出された。日常食としてのうどんは主婦が作るが、人寄せのときは男性が作るものとされた。最後に出るうどんは「本膳」と呼ばれ、小さい頃に祖母から聞いた話でも、「本膳がでるよ」と言われるとお開きになる合図だったという。本膳が出るとお茶を飲んで帰らねばならず、もっと酒を飲みたいからまだ出さないでほしいと言う人もいた一方で、ようやく帰ることができるとほっとした人もいたという。うどんを茹でた湯は大切にとっておき、家庭ではシャンプーの代わりに使い、店では茹で汁で食器を洗っていた。今ではうどんは小平の郷土食となっており、彼女も友人もうどんを普及する会の一員として積極的に活動している。
 このように、小平で生まれ育ち、婿をとって実家を継いだ彼女は、自分の直接的な経験だけでなく、兄弟姉妹から見聞きしたことも多く記憶している。その一つに青年会の活動がある。中学校を卒業して入る人もいれば、高校卒業後に入る人もいた。昼間は働いているため活動は夜であった。年齢の上限はとくになかったが、結婚するとやめることになっていた。兄と姉はそこに入っていたが、末っ子の彼女は参加しなかった。というのも、彼女が高校を卒業した昭和三十三年には、学校のクラブ活動等が盛んであったからだ。逆に青年会は廃れていったように思う。青年会では各地域の青年会が勉強のために、泊りがけで一か所に集うこともあった。その活動で軽井沢に行った彼女の姉は、東京の中野区の青年会の一員であった男性に出会い、結婚した。青年会の活動は出会いの場でもあったようだ。活動をしているのは農家の人が多かった。農家は出会いの機会が少なかったため、このような活動を通じて結婚相手を見つけることも多かったのではないかと思う。そのように男女の交際がしやすくなったのは戦後で、それ以前は自分たちで結婚相手をみつけることは「とんでもない」こととされ、「あれは慣れ合いだ」等と言われた。「慣れ合い」とは恋愛のことを指す。
 一方、昭和三十五年から小平に住み始めた友人は、子育てが一段落したのを機に、公民館の成人学級で学び始めた。成人学級には子どもをもつ親が参加した。子育ての講座や婦人学級、文学講座等のいろいろな講座を受講した。講座は週に一回、一講座が十二回から十五回で成り立っていた。児童文学についての講座に関心をもった彼女は、二回も受講し、修了者でサークルを作り勉強を続けていた。これらの講座がきっかけとなって「子ども文庫」を始めたのだった。自分の子どもに良い本を与えたいという気持ちが原動力だった。ちょうどテレビが普及する頃だったので、テレビばかり見ないように、本を読み聞かせる等の工夫もした。
 子ども文庫は、最初は本を持ち寄って自宅で開催していたが、自治会の青少年部の活動として位置づけてもらえるように自治会長に相談したところ、会長の自宅で始められることになった。その後、自宅を建て直したときに、本を全部そこに移し、自分の本とみんなの本を持ち寄って開催した。一か月に二回、二時から三時の時間帯に開くのであるが、昭和四十七年頃は一度に七十人が来たこともある程、子どもたちの関心は高かった。当時はまだ小平には図書館がなく、「あそこに行けば本がある」と子どもの口コミで広がり、最盛期には市内に三十八か所もの子ども文庫があった。
 彼女は自宅で子ども文庫を開きながら、図書館建設運動にも参加した。彼女に限らず、子ども文庫にかかわっていた人たちの大半は母親で、彼女たちが図書館を建ててほしいと声をあげたのだった。六十人近くいたと記憶している。社会的気運の盛り上がりもあり、その波に乗った、という感じであった。彼女自身は結婚後に小平に住み始めた新住民であったが、「子どもはここがふるさと、子どものふるさとは良くあるべきだ」という気持ちが活動の根底にあった。昭和五十年には現在の仲町に図書館が建設され、その後、市内に八つの図書館が開館し、読書環境が整った。今では子ども文庫は四か所しか残っていない。