屋敷神の消長

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 さて、文久三年に祀られていた稲荷は百十一柱で、ほぼ半数の家で祀られていた。昭和三十年になると百三十一柱へと増加し、平成二十一年には百十五柱へと減少している。これは、前者の期間は稲荷を信仰する家の自然増と考えてよいが、後者の期間に減少を示すということは、屋敷を手放したりして稲荷を祀るのを止めてしまった家が出てきたことを意味する。実際、小平神明宮のもとには屋敷神をお戻しする依頼がこれまでにいくつかあったという。
 興味深いことに、稲荷を祀る家は減少に転じたのに対して、年神を祀る家は増加し続けている。頒布戸数全体に対する年神を祀る家の割合は時代を経るごとに増加している。その理由について、今のところ確かなことはわからない。
 弁財天、水神、井戸神は、文久三年から昭和三十年にかけての期間に増加し、平成二十一年にかけては少し減っている。前者の期間に増加した理由として考えられることは、当時、飲料水の確保には小川分水か井戸を利用するしかなかったので、それだけ水を大切にし、新たに家を建てるときにはそうした場所に水の神様を祀り始めたのだろう。後者の期間の減少は、家の廃絶か信仰の放棄のいずれかだと考えられる。
 山ノ神や荒神は、屋敷と畑地のあいだの藪や山林に祀られていた神様である。その数は時代を追うごとに減っている。おそらく、山林が開かれ、そこが畑地や宅地に変わっていくなかで祀られなくなったのだろう。
 以上、屋敷神の種類と数の変遷をまとめると次のようにいえる。明治以後、分家などで家が増加するなどして、生活に直接かかわる神様、すなわち竃神と水神、井戸神の件数が増加したが、その一方で山林が減っていき、それに関係する山ノ神や荒神などは減少していった。戦後は、家の事情で屋敷神を放棄した家も出始めているが、年神だけは今でも熱心に祀る傾向がある。
 最後に、一戸当たりで祀る屋敷神についてみていこう。いずれの時代においても、竃神のみ、竃神と稲荷、竃神と稲荷と年神、という組み合わせで祀る家が大分を占める。平成二十一年の場合、竃神と稲荷と年神の三柱をともに祀る家は三十八戸で、そのうちさらにほかの屋敷神も祀るという家が十四戸ほどあり、六、七柱もの屋敷神を祀る家も二、三戸ある(図7-10)。

図7-10
ひとつの家にいくつもの屋敷神が祀られている 小川町(2010.3.20)