青梅街道に沿って

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表7-3 青梅街道沿いの屋敷神の特徴
No.名称地区位置形態・材質云われ祭日と祭りの内容
1おいなりさん小川町1丁目母屋の北東側、西向き石製、朱の鳥居稲荷は豊川稲荷で、商売をやっていたので祀っている。今は赤坂の豊川稲荷からお札や幟をもらってくる。祠のお札は本山からもらってくる。話者家の稲荷はもともと畑の真中にあった。昔の家を壊したとき、現在地に遷した。特に理由はなく、気持ちである。初午には火を焚いて、赤飯、油揚げ、メザシ、お神酒をあげる。今は家族だけでお祭りするが、昔は従業員も参加したのではないかと思う。
2かさもり稲荷小川町1丁目母屋の北側、東向き木製銅板茸き、朱の鳥居カサモリ稲荷で、疱瘡の神様である。大正期までは所沢からも参拝者がいた。稲荷の前の道が参道になっていて、茶店が出てお札があった。2月11日、地域の人々11軒が集まり、宮司も来て祭りをする。
3おいなりさん小川町1丁目屋敷内 東向き石製、朱の鳥居「金子稲荷」ともいわれている。2月11日、近所の人々が供物を持ち寄る。
4八幡様小川町1丁目なし石製屋敷内にあったが、30年前に神明宮に返した。家を建築中、業者が怪我をしたり体の具合が悪くなったりするので、祈祷する人に見てもらうと八幡様が祟っているというからだという。そこで神明宮に相談して神明宮にお返しした。1、15、2日に赤飯を供えていた。
5おいなりさん小川町1丁目母屋の南西側、西向きコンクリート製神主はK家で、祭りも采配をふるっていたが、みんな高齢になったためよくわからない。昔は北寄りにあった。家の改築で今のところに遷した。この祠のなかにコカゲさんも一緒に祀られている。2月11日、7軒の氏子が赤飯、お神酒、御馳走を持ち寄ってお祭りをしている。
6杉守稲荷社(おいなりさま)小川町1丁目母屋の北西側、東向き石製、朱の鳥居社の裏に慶長2年と記されている。云われは伝わっていない。戦時中は出征する人やその家族が大勢お参りした。以前はもう少し南にあった。父の代に遷した。平成22年に新調。 2月11日、野菜、果物、魚(イワシ)、米、油揚げなどを供える。毎日お茶、塩、榊一対を供える。
7おいなりさん小川町2丁目屋敷内石製、石鳥居東伏見稲荷からお札をいただいてきて納めた。平成22年に新調。2月11日、神酒、油揚げなどを供える。
8おいなりさん小川町2丁目母屋の南側石製、木製の覆い屋不明。昔は畑の南側にあった。2月11日に幟旗を立て、油揚げ、赤飯、お酒、みかんを供える。神明宮からお札、注連飾り、赤い幣束が届けられるのでそれを供える。昔は正月三が日にお雑煮を上げたが現在は元日だけする。
9弁天様小川町2丁目母屋の南側木製銅板茸き、鳥居2代前から祀る。30年前、道路新設のため遷す。弁天様は東南にあって北西方向の家を守る。日常的に水を供えている。蝋燭を灯す。
10蛇神様小川町2丁目母屋の南側 No.9の隣石製川にいた白蛇がここに住み着いた。
11おいなりさん小川町2丁目母屋の西側、東向き石製、朱の鳥居2代前に現在地に住み始めたとき祀り始めた。2月11日、赤飯、油揚げ、神酒を供える。
12おいなりさま小川町2丁目母屋の南西側、東向き木製銅板茸き不明。
13おいなりさま小川町2丁目母屋の西側、東向き木製銅板茸き、石鳥居伏見稲荷(正一位稲荷)に娘が時々行く。社に奉納してある瀬戸物の白狐はそのとき買ってきた。以前は畑にあったが屋敷内に遷した。2月11日、正月、赤飯、油揚げ、めざしを供える。神明宮から幣束が届けられる。
14小川町2丁目母屋の南西側、東向き石製
15おいなりさん小川町2丁目母屋の北側、南向き木製銅板茸きご利益あり2月11日、赤飯、油揚げを供える。
16伏見稲荷(正一位稲荷)仲町母屋の南側木製銅板茸き昭和20年頃、東伏見稲荷から本尊の札をもらった。正月と初午に幟を立てて、油揚げ、煮しめなどを上げる。年末と初午前日にお札をもらってくる。
17おいなりさん(正一位稲荷大明神・外神様)仲町母屋の北側、南向き塩化ビニール、鳥居なし。熊野宮の宮司が魂を入れた。2月11日、「正一位稲荷大明神」の幟(赤地に黒)を2本立て、鳥居に注連縄を張り、赤飯、油揚げ、神酒を上げる。昔は字を書くのが上手になるといって子どもが習字を供えた。正月は特にしない。
18いなりさん仲町母屋の南西側、東向き木製の覆い屋、朱の鳥居先々代のとき、隣の家が引っ越すさいに頼まれて引き受けた。2月11日、お社を清め、赤飯、油揚げなどを供えて幟を立てる。近所の8軒の人か寄ってお茶を飲む。年末と初午の前になると熊野宮か幣束を届けてくれる。
19おいなりさん仲町畑(松、杉の木の下)、東向き石製(数年前に新調)不明。2月11日、「奉納稲荷大明神」の7色の幟を立て、赤飯、油揚げを供える。昔は向こう三軒両隣が集まって飲食した。今でも隣の家の人はお神酒を供えてくれる。幣束は熊野宮から届けられる。
20正徳稲荷仲町母屋の南西側、東向き石製、鳥居3基防風林の近くに祀ってあったが、竹藪が枯れてしまったので現在地に祀る。2月11日、「正徳稲荷大明神」と書いた五色の幟と、赤飯、油揚げ、めざしを供える。正月に熊野宮から幣束と注連飾りが届けられるので供える。
21正徳星稲荷仲町母屋の南東側、南向き木製、鳥居2基話者家の前方の家が昭和19年に建て替えた時、現在地に祀った。2月11日、「正徳星稲荷大明神」と課書いた五色の幟と、赤飯、油揚げ、めざしを供える。
22仲町母屋の北側、南向き石製、鳥居
23仲町母屋の北側、東向き木製、朱の鳥居みかん、蝋燭が上がっている。
24おいなりさん天神町1丁目母屋の北西側、東向き石製、朱のコンクリートの鳥居、石灯籠武蔵野神社のお札を祀る。12月31日は手打ちうどんを供える。正月は雑煮、初午(2月11日)は赤飯、油揚げを供える。
25正一位出世稲荷大明神天神町1丁目母屋の隣、東向き石製昔はもう少し小さかったが20年前に近所の人に作り直してもらう。正月に成田山に参拝してお札をいただいてきて祠の中に祀る。2月11日、赤飯、油揚げなどを供える。
26おいなりさん天神町1丁目母屋の東側、南向き木製銅板茸き、鳥居先々代が中国に行っている時、その奥さんの夢のなかで、稲荷の社が土の中から頭を出して、畑の外に出してくれといっていたので出して祀った。戦地から無事に帰ってきた先々代も同じ夢を見たとのこと。それ以来、大切にしている。現在地よりずっと西の畑に祀っていたが、昭和50年頃、土地を分割するときに現在地に遷した。2月11日、めざしと赤飯を供える。毎月1日、15日には白飯と豆腐を供える。
27おいなりさん天神町1丁目母屋の南側、東向き石製祠には三つの扉が付いていて、三社さんとも呼んでいるが、云われはよくわからない。2月11日、祠の前で家族と一緒に赤飯を食べる。めざし3匹、油揚げ、赤飯3つを供える。昔は正一位稲荷大明神の幟を上げた。毎月1、15日にご飯を供える。
28おいなりさん天神町1丁目母屋の南側、東向き朱のコンクリート製、東向き、鳥居昭和56年頃、家で不幸が続き、神主に見てもらった。東向きだった社を少し家の方(北)に向き直した。今は何もしていない。「東伏見正一位稲荷大明神」の幟を2本立てている。
29おいなりさん天神町1丁目屋敷内、東向き朱のコンクリート製昭和37年頃、畑から移動。今は何もしていない。昔は東伏見稲荷で幟を買った。
30おいなりさん天神町1丁目屋敷内、東向き木製銅板茸き35年前には畑の南端にあった。現在地に遷した後、オフドウサンというお祓いをする人に父が頼んで拝んでもらった。2月11日は赤飯と油揚げ、正月は雑煮と神酒、12月30日に神社から届けられた注連飾りを飾る。
31おいなりさん天神町1丁目母屋の南側、東向き朱のコンクリート製、鳥居年末、赤坂の豊川稲荷に幟を買いに行く。以前は今の家の北側に祀ってあったのを、家を建てた際に移動させた。初午の日に赤飯、油揚げを供える。暮れには蕎麦、正月三が日は雑煮を供える。暮れに武蔵野神社から注連飾りが届けられる。
32おいなりさん天神町1丁目母屋の南西側、東向き木製銅板茸き昭和34年に現在地に母屋を建てるときにここに遷した。それ以前は畑の隅にあった。毎月1日にご飯、水、油揚げを供える。2月11日は特に何もしない。
33おいなりさん天神町2丁目母屋の西側、南向き木製、屋根はブリキ、朱の鳥居昔の屋敷は用水の北側にあって稲荷もそこで祀っていたが、昭和の終わりごろ今の母屋を新築する際、熊野宮の神主さんに祀ってもらって新調した。正月と2月11日。赤飯、油揚げを供えるが幟は立てない。節分のときに家の鬼を追い出した後、この社にも豆を撒いている。
34いなりさん花小全井5丁目屋敷内、東向き木製銅板茸き、鳥居元は不明だが、近年は東伏見の稲荷社。もともと青梅街道沿いの篠山にあったが、母屋の西側に遷した後、昭和37年ごろに母屋の南側に遷す。遷すたぴに神明宮の宮司さんにお祭りしてもらった。初午に祭りをする。昔は稲荷さんの前でたき火して子どもたちは稲荷さんに供えた赤飯を食べた。夜は稲荷寿司、昼はうどん、めざし、油揚げを供える。正月三が日はお雑煮をあげる。正月用のお供えもお稲荷さんの分を作るが、陰餅といって、その前に供えない。正月飾りは昔は鳶の方が売りに来たが、近ごろは近所のスーパーで買う。
35おいなりさん花小全井5丁目母屋の南側、東向き朱のコンクリート製。豊川稲荷。祠は南の畑の方にあったが、昭和42年だったか、暮れの掃除のとき祠を開けたらヤモリがいてびっくりして落としてしまった。その後2月に盗まれてしまった。その後屋敷のすぐ南に遷した。2月11日、重箱で赤飯を供え、社の前で葉の上に一つだけ赤飯を盛る。正月三が日にもお供えをする。暮れにお札を貰いに行く。
36おいなりさん花小全井5丁目母屋の南側、東向き石製、鳥居昔からある。神明宮にお願いしている。昔は南側の畑の端にあった。そこにある大きな黒松を御神木といっていた。平成に入るころにマンションを建て、祭りをしてその松を伐り、現在地に柿の木の下に遷した。正月三が日に祀る。初午はしない。
37 おいなりさん花小全井5丁目母屋の南側、東向き石製平成元年に家を新築したとき現在地に祀った。
38おいなりさん花小全井5丁目母屋の南側、東向き木製銅板茸き、鳥居昔はどこのお稲荷様か名前がないので赤坂の豊川稲荷にしたのだと思う。毎月22日にお参りに行った。昔は用水の南側に祀っていたが、土地を市に提供したときに現在地に遷した。3年前に家を新築したとき、稲荷社もきれいにして赤坂から豊川稲荷の神主がきて祀ってくれた。用水の南側から社を遷した時も祀ってもらった。初午に赤飯、お神酒、油揚げを供える。毎月22日は豊川稲荷の縁日なので、昔はこの日にもお祀りしていた。

 それぞれの家で祀られる屋敷神は、どのようないわれがあって、どのように祀られているのだろうか。青梅街道を歩いてみて目の届く範囲にあった屋敷神を調べ、それらをまとめたものが表7-3である。それによると、屋敷神のほとんどは稲荷であった。名称は「おいなりさん」と呼ぶ例が多く、祀る場所は屋敷が多いが、もともと畑に祀っていて、畑を手放すときや母屋を新築する時に屋敷に遷したという話が多く伝わる。お社(祠)の材質は、木製、石製、コンクリートなど様々で、古いものもあれば近年になって新調したものもある。祭日は二月の初午を基本とするが、日を定めて二月十一日を初午としている家が多い。初午には、神酒、油揚げ、めざし、赤飯を供え、幟を立てる。そのほか、正月や毎月一、十五日に供え物をあげることもある。何か特別に祭りをしてもらいたいときや、年末のお札、幣束の授与などは、最寄りの神社に依頼することが多いようである。また、伏見稲荷大社(京都市)、東伏見稲荷神社(西東京市)、豊川稲荷(豊川閣妙嚴寺・愛知県豊川市)の分社とする稲荷もあったり、個人的な信心から実際にそうした本社に参拝したりする人もみられる。
 屋敷神が何の神様なのか、祀っている当人たちもはっきりとわからない例もある。例えば、玉川上水沿いに住むある人は、実際に次のような経験をしたという。昔、この人が病気になったとき、祖父母-祖父は明治十年(一八七七)、祖母は明治十五年(一八八二)生まれ-に勧められて府中のオメクラサンに相談しに行った。するとオメクラサンは母屋の中心から見て辰巳の方角にお稲荷さんがあると言った。その方角には分水を挟んでキノエネサマという神様を祀っていたが、稲荷ではなかったので、この人はオメクラサンの判断の信憑性を疑って喧嘩してしまった。家に帰ってきてからそのことを祖父母に告げると、確かに我が家に稲荷はないと言う。しかし、キノエネサマには赤い幣束が立っていたので本当は稲荷ではないかという話になった。そこでこの人はオメクラサンに謝罪に行って、稲荷はいつから祀られだしたのか尋ねたところ、オメクラサンは尋常ではない量の汗をかきながら判じはじめ、結局のところわからないと答えたが、おそらく野狐が棲みついたのだろうと答えたという。
 さて、屋敷神というのは、屋敷とセットになっている神様らしく、空き家になっても誰かが代わって祀ろうとする傾向にある。誰にも祀られなくなった屋敷神は、いろいろな機会によって再び祀られる。例えば、小川町のある家では現在稲荷を三社祀っているが、戦前までは一社しか祀っていなかった。ある時期、家に不幸が続いたので易者にみてもらったところ、用水に玉があるといわれたので、探したところ本当に玉が見つかった。それを稲荷として祀ったところ、以来この家に続いていた不幸は止まった。こうしてこの家には稲荷が二社祀られることになった。さらにもう一社は、もともと別の家で稲荷が祀られていたが、その家の者が稲荷の鳥居に物干し竿をかけて洗濯物を干したところ、火事が起こって途絶えてしまった。そして、その稲荷を世話する人がいなくなったので、この人の家の畑に遷して代わりに祀るようにしたという。ただ、この稲荷は商店街の人たちの信仰が篤く、小川駅前の近所の人たちが商売の神様として祀りはじめ、祭りも彼らに任せているという。
 以上の話にみられるように、屋敷神のなかには、そのときどきの事情によって名称も性格も祀る人も頻繁に変わるものがあるらしい。したがって、表7-2にある様々な屋敷神のなかには、今となっては一体どのような性格の神様なのかがよくわからなくなってしまって、家にある以上、ただ粗末にできないからといって祀り続けているものもある。
 さて、戦後小平に移り住み、コミュニティを作った人々が新たに神様をお祀りするに至った例は、小川駅前の商店街のほかに、小平駅前町会が挙げられる。第六章でも述べたが、小平駅前稲荷神社も、そのお社自体はもともと仲町のある農家の畑に祀られていた稲荷だった。元の持ち主の話によれば、もともと稲荷は畑に建っていたが、昭和二十年代、第十九都営住宅ができたときにその場所が買い取られたので、ひとまず別の畑に遷した。その後、商店の人たちの要望でこの稲荷を譲ることにし、現在地で祀られるようになったという。そのような経緯もあって、この人は今でも二月十一日の初午祭のときに赤飯と油揚げに自作の五色の幟(現在は駅前町会と同じ幟にしている)を立てに行っているという。