この章では、小平市域内の地域の人のつながりについて述べる。現在小平市は町名だけで区分すれば、二十一の町から成っている。その区分と名称が成立したのは、昭和三十七年十月、市制が施かれてのことになる。その数年前から、小平町では、おそらく市制施行に向けての作業の一環と思われるが、旧来からの字(あざ)の境を整理してわかりやすい区画を設定しようと動いていた。ここでいう「字」とは、基本的には幕藩体制期の開拓、行政単位である村域を指している。「小平町報」では、同三十五年六月から「字名・地番の改正」というコラムを連載し、その整備に向けての地ならしを始めている。たとえば同年八月の町報には次のような文がある。「自転車に乗って、役場の前から青梅街道を東に向って走ったとしよう。しばらくは街道の両側とも小川新田が続く。二小前の道路(回田道)との交さ点を越えると、右側は野中善組(野中新田善左衛門組-引用者註)に、左側は大沼田新田になる。しかし百メートルも行かないうちに左側は野中与組(野中新田与右衛門組-同)に変わり、そこから三百メートルぐらい行くと右側が鈴木新田に、さらに左は野中善組にと変わる。それから先は右はまた野中善組に、東は二百~三百メートルおきぐらいに大沼田新田、野中与組、また大沼田新田と、まるで走馬灯のように目まぐるしく変わっていく。自分の家が野中善組で右隣が野中与組、左隣が大沼田新田、街道をへだてた向いの家が鈴木新田ということも実際起こり得るわけである。」として、これでは郵便などの配達業務が行いにくいこと、選挙の時、投票所までの距離などから投票所別に有権者を分けるにも煩瑣(はんさ)であることなどを指摘している。
この時代まで、公的な住居表示は、たとえば「野中新田善左衛門組何番地」という表示をとっていた。もっとも、第五章の表5-3で示した戦前の電話帳の住所表記には、たとえば「小川坂南側」「小川窪南側」「廻田新田北割」「鷹野街道外」など、慣行的な地名を織り込んでいる例もあり、必ずしもひとつの公的な表示で統一されていたものではなかったようである。なお、「小川坂南側」とは、小川の五番組を指す。ここは坂組とも呼ばれており、その青梅街道の南側の家ということになる。同様に八番までの組にわかれている二番組は寺組、四番組は中宿組、六番組は久保組、七番組は下宿組、八番組は大下組とも称されていたようである。(『古文書目録十二集 諸家文書目録』小平市中央図書館 平成二年解題参照)