両隣と向かいの家

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 以下、小川を中心に述べていく。地域内の組織として、両隣向かい、サシバ(『小平町誌』では「差場」と表記)、組合、組、大組といったつながりがある。なお、このほかに講というつながりがあげられるのだが、これはいわば有志的結合であり、そこに定住している家々が必ず属さねばならないという性格のものではない。かつては頼母子(たのもし)講も組まれていたようだが、現在継続しているのは信仰的な講であるため、これは第七章においてふれている。
 さて、列記した諸組織のうち、サシバについては、その指す家が地域によってまちまちである。『小平町誌』においても「両隣向こうは非常にはっきりしているので特別混乱することはないが、差場と組合についてはいりまじって意識されている。そのため、ある人は差場と組合は同じであるというし、別な人は差場を組合からはみ出た家(八一図-この図は省略。引用者註)だけだと説明してくれる。」とあるが、今回の調査においても、旧小川村と小川新田の地域で、ある人は両隣と向かいの家のつながりをサシバと呼び、別の人はそれに向かいの両隣の二軒を加えた家々をサシバといい、またある人は向かいの家の左右の両隣二軒の家をそう指していた。ここではサシバという言葉の認識が一致していないということをまず述べておきたい。
 しかし、かつて祝儀、不祝儀の折、その家の行事を責任をもって差配して進めるのは、なにをおいても両隣と向かいの家の計三軒であり、そして向かいの家の両隣二軒はその手伝いにあたるというシステム自体は多くの場合で共通していた。ある一軒の家にとって、両隣と向かいの計三軒の家とのつながり、これが地域のなかで最も強い生命力をもって継承されてきた地縁組織である。この三軒のなかから、式全般を仕切りその進行責任をもつ匠番頭(しょうばんとう)(「相伴当」と表記されることもある)を出し、この役の者の指示にまわりの者は従うことになる。
 そうした集まりの時、小平では必ず最後にうどんを出す。うどんの前は、魚屋が当事者の家まで出張って作った料理が並ぶのだが、座がこれでお開きという区切りに出されるのがうどんになる。逆にいえば、そうした場でうどんが出される前に席を立つということは喧嘩を売るに等しい非礼であるとされていた。そのため所用で中座せざるを得ない時は、台所に立ち寄ってでもうどんを食べて帰らねばならぬほどだったという。匠番頭は、単に場の進行役ということではなく、座の雰囲気や流れをよみ、ころあいをみはからって、うどんを出す時期の判断を下す。これはその指示が早すぎると、宴の客を追い立ててしまうような印象を与えることになる。ある程度人生経験を積んだ人物がこの役を引き受けることが多かった。
 図8-7は『小平町誌』からの図の引用である。この図の斜線の家にとって、祝儀、不祝儀の行事の執行を支える家々はイ、ロ、ハであり、このなかから匠番頭が選ばれる。次いで手助けをするのがヘ、トとなる。こうした家のつながりのシステムは、当然のことながらどの家を中心にするかでその範囲は違ってくる。そのためこのつながりは、後述するように地域の組の境を越えて機能する。なお、仮にイの家がその短冊状土地割内に分家を出した場合、これはむらづきあいのなかでは一戸前とはみなされなかった。

図8-7
「両隣り向う」の概念図(『小平町誌』より)


 また、新しく家督を継いだ家の息子は、こうした近所づきあいにはじめてかかわる際、「不幸からつきあいをはじめない」というしきたりがあり、その夫婦は葬儀には顔を出さず、まず、祝儀の際の付き合いに列席し、それが済んでからでないと葬儀の集まりには出られなかった旨のことが『小平ふるさと物語(二)』(小平郷土研究会小平ふるさと物語部会 平成十七年)に紹介されている。