葬儀を出す

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 両隣り向かいの家が祝儀、不祝儀の折に諸事取り仕切る役割である旨述べたが、前者の代表的な例が結婚式であり、後者のそれは葬儀になる。この二者を互助組織の面で比較すると、前者の家々のつながりは後者にくらべて大きく弱まってきているのが現状であるが、葬儀の折の家々のつながりは、まだ往時のありかたをかなり継承している。しかし、これも小平が市になった昭和三十七年以降、市が火葬を強く勧めたため、土葬時代の葬儀のすすめ方の記憶は地域の中ですっかり薄くなっている。ここでも『小平町誌』に多くを頼りつつその様子を示してみる。
 ある家で人が亡くなると、その家はすぐに両隣と向かいの家に知らせる。そこからはこの家々が葬儀の段取りを仕切ることになる。まず、「いいつぎ」と呼ばれる伝達人を出し、近隣や友人に知らせると、彼等はその家に集まり、訃報を伝えるべき人たちを確認し、手分けをしてその人たちに伝える。この伝えに行く人を「飛脚」と呼び、必ず二人一組で行く。これは大切な役目であり、間違いなくつとめてもらうためといわれている。昔は羽織を着て昼間でも提灯(ちょうちん)に火をともして行ったという。行った先では口上を伝えるが、この時座敷にはあがらず、上がりかまちで伝える。これも通常の訪問とは違うという意味を含んでいるからであるという。飛脚をむかえる家は、彼等に茶ではなく冷酒でもてなす。飛脚はこの酒をやはり上がりかまちで腰をおろして飲む。そのため酒の買い置きがないと恥をかくことになる。そんな時のそなえとして、目配りのきく家では、酒を五合だけは必ず常に手元においておくようにしていた。
 『小平町誌』には、「死者に近い親類の家には、すでに他界してしまっていても『危篤』と伝えるしきたりになっていたというが、これは急いでかけつけてもらおうという意味からだといわれる」とあり、またかつては臨終にいあわせた親類の家にも改めて飛脚をたてていたが、これは止んだとの記述がある。往時の煩瑣さは少しずつ整理されていったのであろう。
図8-8
図8-8 鈴木新田下鈴木の互助組織(『小平町誌』所収の図をトレースして作成)。
(上)下鈴木は上、中、下の3つの組に区分されるが、この他に講中としての区分があり、それは海岸寺上、海岸寺下、円成院という寺院の檀家に基づく3つになる。
(下)ここで中組の事例をとりあげる。中組は中がⅠ~Ⅴの5つに区分される。仮にⅢの中で葬儀を出す家があった場合、海岸寺下の人々が会葬に参加する。また喪主とその親類、組合以外の家から「床取り」(床番)が4人順番に出る

図8-9
図8-9 回田の互助組織の概略(『小平町誌』所収の図をトレースして作成)。
この地域はかつては上と下とにわかれていたらしい。その境を図中の上、下と矢印で示している。番号で示したのは家で、二重丸は明治初期からあった家。現在、五人組であった五軒組の六つのグループに区分されている。Ⅰ~Ⅵがそれであり、ⅠとⅡ、ⅢとⅣ、ⅤとⅥが組んで互助を行なう。たとえばⅠの家で葬儀を出す場合はⅡが手伝う。この場合Ⅱを袖組(そでぐみ)という

表8-3 小平の旧村の寺院と主要な檀家の地域(『郷土こだいら』より)。なお現在は住宅地などに特定の檀家をもたない形の寺院などが増え、市内に十五の寺院がある
寺院名所在地宗派檀家の地域
小川寺小川町一丁目臨済宗小川一~二丁目
平安院仲町臨済宗仲町
泉蔵院大沼町二丁目天台宗大沼町一~二丁目
延命寺天神町二丁目真言宗天神町一~二丁目、花小金井五~六丁目、上水南町の一部
円成院花小金井一丁目黄檗宗花小金井一~三丁目、花小金井南町一~三丁目
宝寿院鈴木町一丁目真言宗上水本町、鈴木町、回田町の一部
海岸寺御幸町臨済宗御幸町、鈴木町、上水南町、回田町の一部
大仙寺上水南町日蓮宗小平市内に地域的に固定した檀家なし

図8-10
図8-10
葬式の行列。これは小川家文書(U3-44)に記されていた誠有院の葬儀の記録から図にしたもの。誠有院は、小川家九代目の逸平次の弟九一郎のことと思われる。明治四年に亡くなっている

図8-11
図8-11 大沼田における組(上、中、下、裏)。(『小平町誌』所収の図をトレースして作成)
大沼田は小川と違い、必ずしも街道をはさんで家々が向かいあっておらず、さらに他地域との境界の入り込みも複雑なことから、家々の最も強いつながりのなかに向かいの家が含まれていない。この互助組織にはそれだけの正当性が息づいていたからであろう。慣習が制度を越える力をもっていた時代の一証左ともいえる。