議会の議事録から

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 以上が往時の葬儀の概要であるが、その段取りは前述したように両隣向かいの家、さらに向かいの両隣の家が一切の責任をもってとり仕切る。これらの家の年長者が世話役の責任者となることが多かったという。
 昭和二十三年二月二日に招集された定例町議会で一人の議員が欠席届を提出している。その理由に「隣家の葬式」との語が記されている。この時代に議員が公務の欠席の理由としてこの語を書き、議会もそれをやむ得ないものとして承認しているのは、これまで述べてきた「両隣り向かい」のつながりの強さ以外には考えられない。この互助組織にはそれだけの正当性が息づいていたからであろう。慣習が制度を越える力をもっていた時代の一証左ともいえる。
 現代でも葬儀の際にはこの人々のつながりは機能している。ただ、これまで述べてきたのはあくまで土葬時代でのありかたであり、火葬となった現在は、そのすすめかたは、以前に比べるとその煩瑣さは減少している。そして、この互助組織自体が少しずつくずれ始めている時代が今であるという。旧農村部の人たちも、その多くが専業農家ではなく、どこかに勤めている場合が多い。葬儀の際、故人が勤めていた会社の人たちが葬儀を手助けに入り、場合によっては取り仕切ることもあるという。いわゆる地縁に、会社のつながりが介入し始めている。
 なお、かつての旧小川、小川新田、大沼田、野中、鈴木など開発後、時を経ずして寺が建立された地域は、その寺院内に墓地をもつのだが、廻り田や上鈴木では、屋敷の近くに内墓と称して墓所をもっている。しかしこうした内墓は、小平の市制施行以降の火葬普及にともない、旦那寺に墓を移した例も少なくない。
 また、これは葬儀ではないが、戦災を被った折の近隣の対応は『小平市の歴史を拓く-市史研究-第三号』に事例が紹介されており、また火事見舞いの場合は、ザルにおにぎりをいれてとどける慣習があり、これは昭和四十年代半ばまで行われていたという。