はしをかける

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 次に祝儀の代表例である結婚式についてふれておく。これまで小平市内では、第一章でふれたように聞書きをとりまとめた資料集が少なからず刊行されている。そのなかのひとつ『小平ふるさと物語(二)』は、往時の結婚についてのこまやかな聞書きをおさめている。そのなかに大正五年(一九一六)生まれの小川八番の男性の次のような話がある。
「いわゆる恋愛結婚というのは、当時(戦前)はありませんね。農家の人たちは自分の息子が適齢期になると、親類とかに『いい嫁はいないか』と頼んでおくんです。(中略)地元にもそういうことを紹介する年とった人がいますので、その人にもお願いしておきます。『じゃ、そこにしよう』と言うことがだいたい決まると、ないしょでそっと見に行くんです。そうして『あそこならよさそうだ』ということになります。決めるのは本人の能力や性格というより、家を中心にして、家族構成や家の財産の状態はどうかとか、その家にどういういろいろなことがあるかとか、こういうことを参考にして選びます。ないしょで見に行くのはまだいい方です。『親が決めたんだからいいや』って見に行かない方が多かった。(中略)親が見に行って『あそことうちとは財産がちょうどいいから決めよう』ということもあります。紹介するほうも、財産だけでなく、普段の家の様子とか、『あの人の子なら人物も間違いないだろう』って紹介することが多いようです。」
 現在、小平の古老からうかがうかつての結婚の話も、話がまとまるまでのことは、ここで引用したものと同工異曲である。たとえば-かつては、どの地域にも、労をおしまぬ世話好きの人がおり、適齢期をむかえた青年男女のために動いて話をまとめたものだという。そうした人のところには情報もよく集まってきた。こうした情報は、小平郵便局の郵便配達人も詳しかったという。この局の管轄は小平から箱根ヶ崎まで及んでおり、彼はその一軒一軒をまわり家々の様子を熟知していたからである。とはいえ、当人同士はろくに話すこともなく、見合いすら行わずに決まることもあった。
 その世話好きの人が、青年を誘って自転車である家に立ちよる。いかにも通りがかったのであいさつに寄ったという趣でそこの家人と言葉をかわして場を立ち去る。そのあと、同行の青年に、あの家にいた娘はどうだろうかと打診し、あとは双方の親が話をすすめて婚儀を決めていくといったことはめずらしくなかったという。『小平ふるさと物語(二)』には、村々をまわる髪結いのお角ちゃんという女性が縁結びをしたエピソードが記されている。こうした世話をする立場の人を「はしかけ」といった。
 ただ、好きなもの同士が夫婦になることもあり、これを「なれあい」と称したという。もっとも明治の末から大正期にかけての頃までは、むらの若者たちが夜、機織りや臼をひいている娘たちのところに遊びに出かけ、時には手伝い、交際の場をもつ慣習もあったらしい。ことに若い女性が村山紬を織る夜業をしていた久留米、村山の地域にはよく出かけていたという。かつての婚姻圏については第五章第四節に示しているが、その分布にもこれは反映しているようである。
 二軒の家で話が決まった後の婚儀のすすめかたについても、前述した『小平ふるさと物語(二)』に個別の体験にもとづいた話が収められている。ここでは、ごく一般化した形で大まかに示しておくことにする。
 まず口かためで、これは婿方と嫁方から仲人(夫婦一組)が決められ、婿方の仲人が嫁方に酒一升と肴を持参し、次に結納金を届ける。大正初期、米一俵八円ほどの頃、結納金が二十円だったという。次いで嫁方の仲人がお返しに、はかま代を持っていく。もっともこうしたことは、家格によっても家の貧富によってもちがっていたらしい。大地主の家に慶応年間(一八六五-六八)に生まれたある女性は、蔵をひとつ引いて嫁ぎ、持参してきた小遣いで畑を五反買った、そんな話も残っている。まだ、家格というものも明確に存在していた時代である。昭和十年頃まで、子どもが父母を呼ぶ時、家格の低い家や貧しい家では「おっとう」「おっかあ」であり、中農以上であれば「おとっつあん」「おっかちゃん」あるいは「とうちゃん」「かあちゃん」であったという。