結婚の日

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 婚姻の当日は、婿方の仲人が、婿と親類の人たちを連れて嫁方の家に迎えに行き、もてなしをうけ、嫁とその家族親類、仲人をつれて戻り、そこで披露が行われる。嫁が家に着くと、入る時に、婿方の女性の仲人に手を引かれ、婿の近所の子で両親の揃った男の子と女の子がワラのたいまつを両側から交叉させて入口に出し、嫁はその上をまたいで入るという風習がある。
 この当日の記述は『郷土こだいら』(昭和四十二年刊)にもとづいてのものになるのだが、戦時中はモンペ姿で嫁いだという人もおり、また物資不足の終戦直後にきわめて質素な式をあげられた方も多く、必ずしも前述のような式次第をまもってすすめたばかりではない。しかし嫁がトンボ口(入口)でたいまつをまたぐ慣習はよく覚えておられた。ただこの場合も、入口にまるめたワラに火をつけ、それをまたぐことが多かったようである。これはきつねが化けていないかどうかを確かめるためという口碑も添えて回想されていた。
 嫁の一行が到着すると、そこからの進行は両隣向かいとサシバの家の人間が匠番頭として仕切る。司会を行いつつ、盃のまわしかたなども「もみあげにしましょうか、もみさげにしましょうか」と一座の意を汲みつつ進行を司った。もみあげとは下座から盃がまわってくることを、もみさげとはその逆を指す。配膳されている料理は、前述したように魚屋が出向いてきて腕をふるった。魚屋は小平駅近くにも花小金井にもいた。当時魚屋はこうした仕事も受けるのが常だった。
 前述した髪結いのお角ちゃんがはしかけとなったのは、昭和十八年三月に東村山から小川に嫁いだ女性の例になる。同書から彼女の宴の様子を少し引用する。
 「間もなく相伴当の合図で式が始まったんです。」と式次第が語られているが、まだこの時、花婿は座についていなかったという。
 「いよいよ『これから三々九度をやります』って相伴当が言ったら、お婿さんがでて来たんですよ。納戸と居間みたいな所の、お膳や何かの支度がいっぱいしてあったと思いますが、そこからお婿さんが出て来て、私と向き合って座ると雄蝶と雌蝶の男の子と女の子が出て三三九度をやって、終わったらお婿さんは、すーっと部屋に入っちゃたんですよ。『へー。そういうもんだなぁー』と思いましたよ。
 しばらくすると『着物を着替えるから』と言って、私は納戸みたいな隠れた部屋に連れて来られて、朝から着ている着物をほどくわけですよ。(中略)」
 「お色直しは振袖から留袖になるわけ。そうすると、お吸い物が出るんです。みんなが飲んだり食べたりしているうちに、またもう一回引っ張り込まれて着替えさせられて、そうするとまた、お吸い物が替わるんですって。何か紋付きの色無地なんか着たと思うんですけれどね。(中略)
 「だんだん終盤近くなったら、大きな茶碗に山盛りにしたお赤飯がでてくるのよ。『へー』と思ったけれど、隣に座っている仲人さんが『食べなさい』っていうの。『どうやって食べるのかなぁ』と思ったけれど、しようがないから、先っちょだけちょこっとお豆か何かをつまんだだけ。そんなにパクパク食べられないじゃありませんか。それが一応食べたってことになって、最後に『いよいよこれが、そろそろおしまいの御馳走』ということで『ツルツルカメカメが出ます。』って言うのね。いわゆる手打ちうどんが出てきたわけよね。(中略)」
 そのあと「嫁の茶」になる。
 「上座の仲人さんから、順々にお茶をだすんだけど、(中略)一人一人お茶を全部出して歩いたの。『これで嫁の茶が終わったから、おひらきにします。』っていうんだけど、その前に両親がちゃんと紋付と留袖を着て、一番下座の玄関の方に座って皆さんに『大変、お世話になり有り難うございました。これからもよろしくお願いします。』って、挨拶するわけなの」
 この「嫁の茶」で式は終わる。なお婚儀の宴の座については第三章でもふれている。
 一般的には、その三日目に嫁の里帰りをし、この時婿方のしゅうとめもついて行き、「しゅうと入り」と呼ぶとされているが、これも一様ではない。花小金井にいる昭和六年生まれの男性の祖母は、近隣から嫁いできたのだが、死ぬまで里帰りができなかったというし、同じ小川内で嫁いだ女性は、実家に頻繁に顔を出していたという。家々の姿勢やその生業のありようによって形態は様々であったらしいと付記しておくほかはない。
 仲人を務めた夫婦に子が生まれたら、仲人は節句には、男の子の場合は人形を、女の子の場合は雛人形を届け、暮れには男の子には破魔弓と破魔矢、女の子には羽子板を届けた。ただこれは、長男長女に限ることが多かったらしい。