井戸

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 最も強い力をもつ家々のつながりのありかたを前節で述べたが、このほかにも規制力をもつ地縁的結合がいくつかあげられる。そのひとつが水にかかわる井戸、用水などのつながりである。小平では、「用水」と呼ばれるものは多く玉川上水からの分流であり、かつては飲み水も生活用水もこれに頼っていた。この用水は、屋敷とそれに続く畑との境を、短冊状の土地割りを貫通して流れており、これは旧態をとどめている所が多い。明治後半、赤痢などの伝染病の流行以降、伝染病の媒介となるこの用水を飲み水に用いることを止め、共同井戸に頼る家が多くなった。それでも飲み水以外の生活用水は、この分流に頼ることが多かった。
図8-12
図8-12
玉川上水。昭和四十年に小平監視所から下流は導水路としての役目がおわり、現在は多摩川上流処理場からの高度処理水が流れている(2009・10)

図8-13
図8-13
西武線青梅街道駅構内で線路の下をくぐり東流する分水(2011.10)

 家々が各々井戸を掘るようになっていったのは、後述するように、そう古いことではない。それ以前、井戸は主に共同井戸であり、少ないながら個人井戸を持っている家がぽつりぽつりとあった程度である。乏水性台地の上に広がる集落地帯であるため、戦後は役場も度々深井戸を掘って補いとしている。小平市の上水道整備は、昭和四十一年からのことになる。
 『小平町誌』では、小川で個人井戸を掘ったのは明治四十年(一九〇七)頃のことで、その費用に当時の金で二百六十五円かかり、井戸掘り職人は小平におらず、武蔵境から呼んでいるとある。小川は一番から八番までの地域から成っており、一番のみ少し戸数が多いが、ほかは各々ほぼ三十戸前後の家で構成されていて、その各地域に、二か所ほど共同井戸があったという。自分の家に井戸をもつ家は、きわめて少なかった。共同井戸は屋根掛けがしてあり、釣瓶(つるべ)でくみあげる様式のものだった。小学校から帰るとその井戸に水をくみに行き、自分の家の水ガメをいっぱいにしておくのが子どもたちの仕事だった。
 鈴木新田には井戸が三つあったが、旱魃(かんばつ)時にそなえての水ためをほかに三か所つくっていたという。野中新田は昭和十三年頃まで用水の水を飲料にも使っていたが、昭和十五年頃に組単位で井戸を掘った。回田では、大正八年(一九一九)に小学校の井戸が掘られるまで、井戸はほとんどない状態であったという。個人井戸が増えたのは戦後のことになる。小川新田にも、明治末期頃から共同井戸はあったが、個人井戸が掘られるようになったのは昭和初期以降のことになる。
 大沼田には、昭和初期頃、四つの共同井戸があり、これを大沼田では「徳川さんの掘ってくれた井戸」といっていた。この四つは、寛保元年(一七四一)に川崎平右衛門の施策によって掘られた二つの井戸と、さらに代官に願い出て掘ったといわれる二つの井戸のことを意味していよう。こうした井戸の井戸さらいは、井戸を使っている人たちが出合って行う。これは秋に行うことが多かった。汲めるだけの水をくみ出し、人が下に降り、カマスを広げて四隅に縄をつけたものを降ろし、底にたまっているゴミやジャリをカマスに載せては引き上げて底を浚った。