本家と分家

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 仲町に一軒、代々末っ子が家督を継いできたという家がある。なぜこの家がそうなのかは、同家の人にもわからないという。小平は岸村(武蔵村山市)、大岱(おんた)村(東村山市)、廻田村(同)、貫井(ぬくい)村(小金井市)、谷保(やほ)村(国立市)など周辺の様々な村から人が入植して拓かれている。あるいは同家の祖が、小平に開拓定住する以前から持ち伝えてきた家の慣行なのか、定住後のある時期からそうした相続を始めたのかも判然とはしないのだが、武蔵野の新田村には、大多数の周囲の家とは異なる習俗をもつ家が一軒、もしくは数軒だけ存在するという例は往々にしてみられる。たとえば節分の時、周囲の家が外に追い払う「鬼」を迎え入れ饗応をする習俗をもつ家が小川にある。これについては第七章第三節でふれるため、そうした慣行をもつ家の存在をここで示すにとどめるが、小平の農家では、一般的に家督は長男が継ぐものとされていた。
 「縁の下のクモの巣までお前のものになるんだから」、昭和二十年に市の南西部の農家の長男に生まれた男性は、幼少時に母親からこうさとされ、長男として育ったという。次男以下の男の子は、いずれ家を出て自分で働き口を探すのが当たり前の世界であった。戦前、小平で尋常(じんじょう)小学校を出ると、近隣の農家の作代として働く者もいたが、伝手(つて)を頼って吉祥寺、三鷹、杉並方面の商店に住み込みで働きにも出ていた。
 本家の短冊状土地割りの一角に小さな家を建ててもらっての分家もあったようだが、これはいわゆる本戸(ほんこ)というむらうちで公的に認められた一戸前の家とは認められない場合が多かった。家督を継いだ兄の家に同居して独身でいる弟や妹は、オンジ、オンバと呼ばれ地域のなかでは少しさげすまれる存在でもあったという。
図8-15
図8-15
正月のしめなわつくり。かつては戸主や長男がつくった。小平は水田に乏しいため陸稲を用いることも多かった 小川町(2009.12)