家のつながり

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 戦後になると、本家からすこしはなれたところに分家として出て、農業以外の稼ぎで暮らす家も増えてきた。そしてまた逆に時代をさかのぼると、十七世紀半ば以降の開拓定住がある程度進展し、村が落ち着きをみた時期にいく軒かの分家を出していた旧家も青梅街道沿いに散在するのだが、こうした時代の分家を含めて、小平における本家分家間のつながりは、口頭伝承によるかぎり、慣習面ではそう強いものではなかったらしい。たとえば、本家の屋敷神の祭日に分家も参詣する、あるいは盆、正月、本家の先代の命日などに分家の家々が本家に参集するといった慣習は薄いようである。ひと世代以上前には参集していたこともあったらしいという話を数軒で聞いた程度であった。
 小平の社会組織で、時代の変動を越えて受け継がれてきた両隣向かい、また諸々の講にくらべると、これはきわめて弱いつながりのようである。小平の家々が折にふれての親類縁者とのつきあい自体を大切にしていたことは、第二章に示した大沼田の収支記録が示している。支出の比率がとびぬけて高いひとつに、親類縁者のつきあいにかかる費用が指摘されている。『小平町誌』では、本分家の同姓集団に対してイッケという語がある旨述べているが、その一部の組織は「もはや忘却のかなたにおかれている」例もあるとしている。
 なお、隠居についても、同じ敷地内に住み分ける形のゆるやかな慣行はあったらしい。第一章でふれた「古隠居屋」の例もそのひとつであろう。大沼田では昭和初期頃、祖母に死なれた祖父がひとり蔵住まいをしていた例をその孫にあたる方からうかがった。ただこれには理由があった。この家では昔旱魃(かんばつ)の時、国分寺の親戚から食べ物をわけてもらってのりきったことがあり、その教訓からその年取れた米と麦は食べずに翌年まで取りおくことにしていた。それを蔵にしまっているのだが、その泥棒除けのために祖父が蔵住まいをしていたという。また、天神町で昭和四年生まれの女性の記憶では、自分の家の近くに隠居家があったが、「部屋は二部屋くらいの藁屋根の小さな家で、台所にカマドがあってそこで火を焚いていた祖母を子ども心に覚えている。隠居分として畑は何反か持っていたようで、生活は主屋とは全部別にしていた」との例も聞いた。