制度化される慣習

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 青年団と消防団については、単に慣習といったものでなく、制度的性格ももつ集団であるため、ここでは大まかに述べるにとどめる。また、地域の諸団体の戦後の動向については第六章第三節でふれている。
 小平の各地区に青年の組織ができたのは明治中頃からであったとされる。『小平町誌』によると、十五歳になると加入する「若衆」「若者組」がそれ以前からあったが、「宿(やど)」の慣行を伴い日常生活を規制するような若者組とは異なり、祭りのときに中心となって活動する程度のものであったという。小川では、若衆組は組が単位となって組織されたものであった。小平に統一された青年団の組織が結成されたのは大正八年(一九一九)頃であるらしい。『小平市史料集 近現代編 第五集 小平の近現代基礎史料』には、明治三十四年(一九〇一)の回田青年会の会則が紹介されており、また、大正八年(一九一九)に小平村青年会成立にともない、回田青年会をその支部とする旨の祝辞の記録もおさめられている。当時の資料で見る限り、その呼称は「青年団」、「青年会」と二種の表現があるのだが、古老にうかがう限り、後者が正式な名称のようである。
 また、大正末頃に、五字(ごあざ)と呼ばれる地区(上鈴木、堀鈴木、堀野中、山家、回田)に女子青年の会がつくられ、小学校教員が中心となって、結婚の折には会として祝ったり、蚕種を配り飼育するといった活動を行っていたらしい。もっとも明治期後半から、前述した回田のように小平の各地区で、俗に「青年」と呼ばれる組織ができており、さらにそれ以前には、その母体ともいえる「若衆」「若者組」と呼ばれる組織があった旨、『郷土こだいら』に記されている。
 戦前は男子であれば、十代半ば頃から二十代後半くらいまでこの組織に入っていたが、実質的には徴兵検査までということが多かったらしい。入団や退団の折に、特に儀式めいたことはしなかったという。その活動の様子は聞書きによると、空地を借りて畑をつくり桑を植えてその葉を売り活動資金とし、祭では青年団としてみこしをかつぎ、また出征兵士の見送り、早朝の雪かき、野ねずみ駆除の指導など多岐にわたっていた。早朝の雪かきは、小学校に通う子どもたちが登校する前に行い、作業には、ほら貝、のちにはラッパを吹いて行っていたという。野ねずみの駆除は、主に子どもたちが、畑にパッチンというバネではさむ板を仕掛け、捕れるとシッポだけを切って学校に持参していたというが、その仕掛けを指導するのが青年たちだった。また、かつて学園西町にあったグラウンドでひらかれていた小平地域の運動会で、もっとも人々の血を沸かせたのは青年団対抗の競技だったという。
 なお、『小平村村勢一班(昭和三年十一月現在)』という昭和四年一月に刊行された資料がある。いわゆる村勢要覧的なデータであるが、これは発行所が小平村青年団村勢調査会となっており、印刷所は日本青年館代理部となっている。この時期、青年団はこうした調査も行っていたのだろう。この資料の「青年団女子団」の項には、青年団の会員数三百十九人、その事業として「講演、講習、修養会、雄弁会、武道奨励農産品評会、野鼠駆除、規約貯金、入退兵士送迎会等」、女子青年会は二百二十七人、事業は「講習会、講演会、相互修養会、見学旅行遠足、毎月三日午前六時神社参拝」と記されている。
 ただ、こうした青年団も、地域によっては必ずしもひとつにまとまっていたのではなく、野中新田には、正式な青年団のほかに「誠心会」という青年団もあり、別に行動していた旨の話が『小平ふるさと物語(二)』に載っている。なぜそうしたことになったのかは不明だが、「『あの連中のやることは気に入らない』ぐらいの理由かもしれません。結構勇ましいのがいっぱいいたし、それに付く子分もいました」という状況だったというから、地縁のなかでの派閥的な動きも反映していたのであろう。
図8-17
図8-17
小平村青年団一夜講習会 小平市立図書館所蔵(1933.4)

 なお、これ以外に、農村の青年子女の教育にかかわる組織として大正十五年(一九二六)に村内の各小学校に青年訓練所が併設されており、また青年学校令が昭和十年に施行されると、「小平青年学校」が設立されている。
 こうした組織も戦争が激しくなり、召集で青年の数が減っていくと、解散したわけではないのだが、実質的には活動停止の状態となり自然消滅していった。戦後、農業会の指導で再興され、一時さかんに活動を始めていたが、昭和四十年頃にその活動は止んだという。