「植民地的風景」

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 前節では、旧農村部で、最も継承性がつよい祝儀、不祝儀に関する互助組織を中心に述べた。もとよりそうしたつながりは、市域全般にわたってみられるものではない。この半世紀のあいだに成立した商店街や増加した住宅、マンションにおいてはこうした固定的なつながりはなく、その様子を異にする。昭和五十一年から始められた市民葬儀-市が支援して提携葬儀社が取り行う葬儀の簡素化-も一面ではあたらしく住みついた人たちに対する配慮であろう。
 さてここでは、新しくできた町のひとつ、学園西町の自治会について述べ、旧農村部以外の地域のつながりやそのあゆみについて例示しておきたい。学園西町は、かつての小川村の鷹野街道外と小川新田の二地域にまたがる形で町域を有している。昭和初期はほとんど人家をみることがなかった地域である。昭和三年に多摩湖線が開通し、箱根土地会社がこの線をはさんで学園東区と学園西区として土地区画を整備し、住宅地として分譲した。この時期多摩湖線では、桜堤駅、商大予科駅、小平学園駅、厚生駅など-これにはのちに廃止された駅もふくまれるのだが、-多くの駅を設け分譲地の販売に力をいれていた。とはいえ、当時の学園西町一帯は最寄駅の商大予科駅に商店が一軒あるのみで、買い物は多摩湖線で国分寺まで行かねばならなかった。この分譲地に住みついた人たちを、もとからの農村部の人たちは「来たりもん」と呼んでいたが、彼等は文字どおり小平外からの人たちで、互いの親近感や連帯感は薄かったという。
 昭和十六年、北海道から親に連れてこられてこの東区に移住してきた昭和八年生まれの男性は次のようにふりかえる。
 「小平学園の駅で親につれられて降りたんです。七月のことで暑かったことを子ども心におぼえています。駅のそばの交番で場所をたずねて歩き始めたんやけど、歩けど歩けど遠い。父に『まだ着かんのか』と何度もたずねて、『うるさい』と叱られたんをおぼえています。道は草ぼうぼう、分譲の区画に家がポツンポツンとありました。あとで聞いたんですが、ひと区画百坪ということでした。線路の東が東区、ここに私ら『来たりもん』の家がところどころにあって、線路の西の西区は箱根土地の会社のえらいさんの別宅があるということでした。」
 「東京日日新聞」の昭和八年八月八日の紙面にこのあたりの描写がある。「三百八十町歩の畑が小平学園住宅地と、メークアップして、お目見得、茫々たる原に、道だけがキチンと走る、うら寂しい植民地風景」と表現しているが、この男性が住みついた時も、これとそう大差ない風景だったのだろう。
 この男性は小平に移ると、小平村第二国民学校に通うことになった。生徒はほとんど農村部の子どもで、分譲地からの子どもは少なかった。友達もできず、よく学校を休んでは外で遊んでいた。その頃多くの子どもは、ゾウリ履きで登校していた。上履きもゾウリで、それを入れるゾウリ袋をさげて登下校していた。彼は通学時の靴も上履きも布の運動靴を買ってもらっていた。これは彼にとっていやなことだった。学校前の「たからや」という文具店に売っていたワラゾウリが欲しくて欲しくて、ある日親の金をくすねて買ったほどだという。
 農村部の子の弁当は陸稲かさつまいもだったが、彼の弁当にはおからが詰められていた。入学当初は「来たりもん」ということでいじめられもしたが、卒業するまでの数年間に、分譲地から通う子どもは少しずつ増えていった。