篤志から組織へ

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 分譲地の家は少しずつ増えていったのだが、そこでの人々のつながりは強いものではなかった。こうした新興地域での近隣組織のつながりが切実に求められるようになったのは終戦前後のことになる。役場からの諸物資-砂糖、塩、パン、布など-の配給や様々な連絡にきちんと対応する受け皿が必要となったが、学園西町では、当初、「来たりもん」のなかの篤志家がこれを引き受けて動いていた。北海道から学園西町に住みついていた藤崎冨太郎という人物がこれにあたった。彼はひとりでリヤカーを引いて地区の配給物資を受け取りに行き、各家に配った。彼は北海道で炭鉱の坑木調達の仕事をしていたというが、子どもの教育のために小平に移り家をもち、北海道と往復する暮らしをしていた。
 配給品への対応をいつまでも個人の篤志に頼ることはできないと、地域の人たちが動き出し、昭和二十四年一月に有志によって睦会という自治的組織がたちあげられ、以後役場との連絡諸事はこの会が行うようになった。この睦会が現在のこの町の町会(自治会)の前身であり、同二十七年に町内会として改組される。当時、この町の戸数は二百六十七戸であり、これを十一の班にわけ、初代会長には前述の藤崎氏が就いた。当初は月一回の会議を会長宅で開いていたが、会議はたびたび深夜まで及び、家人に迷惑がかかるとのことで、場所を当時地域内にあった八畳一間の観音堂に移した。やがてここも手狭となったため、同三十四年に十八畳に拡張、さらに同四十七年に再度改築して三十三畳の建物に広げた。
 役場からの連絡の伝達や配給物資の運搬・配布から始まった会の作業ではあったが、やがて地域の辻々に街灯を設置する作業への対応、歳末特別警戒の実施など仕事が広がり、夜警には役員が輪番で出た。また、親睦行事として、年に一度一橋大学小平分校のグラウンド(昭和四十一年からは小平第四小学校のグラウンド)で運動会を行い、月一回の会報を発行した。
 当初、「来たりもん」ばかりの地域は、藤崎氏の表現を借りれば「(互いに)全然親しみはなく、町に対する何等の連帯感もなく、朝夕会っても挨拶を一つ交わす者すらなかったような有様」だったが、小平市最大の町会をもつ地域となるにいたった。十一班から始まった町会も現在は百三十班、班長だけで百三十人、これに理事三十人をくわえると百六十人の世話役をもつ組織となっている。

図8-19
自治会への誘い 学園東町(2011.10)


図8-20図8-20図8-20図8-20
図8-20
様々なつながり。(左から)小川町(2011.10) 花小金井(2011.11) 学園東町(2010.6) 同(同)