短冊状の土地割り

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図9-1
図9-1
畑境を示すためには植えられているウツギ。その根元には境の石標が埋めこまれている 小川町(2011.4)

図9-2
図9-2
市の西部、青梅街道沿いの短冊状の土地割。明治前半期作成と思われる「東京府北多摩部小平村之図 西之部」よりトレース。図中a-bが青梅街道。a-b間の直線距離はほぼ3.9キロ

 図9-2で示すように、小平市域の青梅街道に沿った一帯は、この街道に直交する形で短冊状に土地割りされた計画的な開村の様子を明確に残している。この土地割りの数や間口の幅の現況は、江戸時代の史料を見る限りでは、必ずしも開村当初のさまをすべて忠実に受け継いでいるものではなく、土地割の細分化による短冊割の数の変化、それにともなう間口の変化といった多少の動きはみられたようだが、それとても当初の開墾定住の様式に沿っての変化になる。
 こうした開墾の土地割りのありさまについては延宝二年(一六七四)頃の小川村の地割図(第一章第一節 図1-4)が残っており、また享保二十年(一七三五)の「村中惣百姓表間口并大道幅改」(小川家文書A-9 10)をはじめとして諸資料が残っており、それらをもとにして、今回の市史編さん作業においても、安永六年(一七七七)の「小川村組分け地割図」(『小平市史料集第十六集 村の生活2』)や明治七年(一八七四)の「小川村番組表」の図(『小平の歴史を拓く-市史研究-第四号』)など、様々に研究が進められている。
 青梅街道に、間口十二間から、地域によっては四十間ほどの幅で直交する形で明確に区分された土地区画ではあるが、また随所に「縄延び」がみられたことも口碑でのこっている。たとえば『小平ふるさと物語』にみる明治四十年(一九〇七)生まれの男性の言、「昔はさ、ここら平均一割くらい土地が余分にあるわけでしょ、一反といって、三百坪というのは三百三十坪あるの。」これは、役人が土地の測量に来たときに、村の人間が測量用の縄をもって手伝うのだが、「『それいくぞ』って言って、お役人が一人だから、両方は見えねえのだから、「それっ、いいよ」って、いっしょに歩いちまうんだからね」。また、同じく昭和九年生まれの女性はこう話している。「友だちの隣の家がね、土地を売ることになったんですって。さて測量したら、昔の台帳に載っているより広いの。縄延びがあったんです。それで、隣の土地の人との認知がなければ登記できないわけで、困ってましたよ」、また彼女は「間所(かんしょ)」という言葉についてこう話している。「東から計ってきて、西から計ってきて、ぶつからないで余った所、そこが間所っていう土地になっているんです」。そして「間所の畑」という場所があったという。直線の分割線による計画開墾の村とはいえ、こうした土地割りの隙間ともいうべき場所があったことは付記しておかねばならないのだが、ここでは基本的に計画性をもった短冊状土地割りということを前提として、その景観の変化を見ていきたい。
図9-3図9-3図9-3図9-3
図9-3
畑の中の道 (左)が畑の宅地化の進展によって宅地や宅地のための道にぬりかえられ、とりのこされた畑の中の道は「突然細くなる道」となって残り、景観の中に存在する(右3枚)。いずれも小川町 左から(2011.4) (同.11)右2枚(同.8)