馬と青梅街道

670 ~ 672 / 881ページ
 現在の古老の話をうかがう限りの時代では、小平には牛馬が少なかった。昭和三年の統計で見ても、小平村の戸数が九百七十一戸で、村全体で牛は三十四頭、馬はわずか二頭にすぎない。牛の多くは朝鮮牛と呼ばれていた酷使に耐えるおとなしい性格の黄褐色の牛だった。牛馬いずれも運搬用につかわれていた。しかし、江戸時代にはこの地域で馬が多く飼われていたし、街道を往来する馬はさらに多かった。
 少し前の時代までは、そうした往時の馬の往来のなごりをとどめるものがあちこちに残っていた。現在天神町二丁目の青梅街道北側、延命寺の西には間口四十間の農家が並んでいたが、そのうちの一軒には、現在の家に改築する昭和四十年頃より以前には、かつて馬と馬方を泊めた家の造りが残っていたという。この家の西は天神窪と呼ばれていた低地からのゆるやかな上り道になっていた。青梅方面から荷をつけた馬は、ちょうどこの坂を登ったところで疲れて動かなくなった。馬方は、この家のところで馬を借りて替え、帰りにはまたここへ寄り、もとの馬を引いて帰った。そんな話が残っている。そのための馬屋と馬方が泊まる小さな部屋が、建坪七十坪ほどの家の同じ屋根の下に、同家の家族の出入口とは別に出入口を設けて作られていた。その場所をウマヤと呼んでいた。馬を泊める場所はドマはなく、分厚い板が敷き詰められていたという。
 また、小川駅のすぐ西で、青梅街道は少し道幅が広くなっていて、かつてそこには道の中央に水路が引かれていて、街道を行く馬が水を飲み休めるようになっていたという。ここはかつて小川新田の名主だった家のすぐ前にあたる。この家には馬つなぎの石も残っていたという。