ジャリと暮らし

672 ~ 674 / 881ページ
 現在一面の舗装がなされている青梅街道は、それ以前は簡易舗装と称される整備が中央部分になされており、さらにその前の時代はジャリが敷かれていた。
 小平のみでなく武蔵野の台地上の土地の多くは、ある深さまで掘るとジャリの層(礫層)につきあたる。その層からは水がしみ出てくる。井戸を掘る場合は、そこまで掘ることになる。下水道の整備がなされていなかった時代は、生活用水の廃棄は、やはりこの層が出るまで穴を掘り、この穴に流し捨てることも多かった。この穴は、時々底にたまったヘドロを掻き出さねばならなかった。
 このジャリの層の深さは一様ではなかった。大沼田の大正八年(一九一九)生まれの男性が小学校六年生の時、小学校の自由課題として大沼田の井戸の深さを調べている。三つの共同井戸とひとつの個人持ちの井戸(これのみ大沼田分ではない)の水面までの深さをおもりをつけたひもを降ろして測ったところ、どの井戸も二十尺(約六メートル)の深さだったという。ジャリ層の位置もそのあたりということになるが、これは小平のなかでも一様ではなく、一橋学園駅付近ではこれより深いという。
 いずれにしても、ある程度掘ればジャリ層につきあたる土地の上に集落が成っていたことになり、かつて青梅街道のあちこちには、ジャリを掘って取った穴がそのままに口をあけていた。この穴が掘られジャリが取られた時代は明確ではない。明治初期あるいは前半のことではないかという。少なくとも、現在の古老が記憶している時代には、道に敷くジャリは多摩川付近や青梅地方から運ばれて来ていた。リンゴ箱にいれて売りにも来た。
 青梅街道にあいていたこのジャリ穴を記憶しているひともわずかになった。天神町二丁目では、青梅街道の北側に三か所、南に一か所あった。北のうちのひとつは延命寺の山門をくぐった内側にあり、昭和初期に老婆が落ち、大騒ぎになったことがあるという。どの穴も埋められてからすでに五十年以上を経ている。明治以前のおもかげを残すものが少し前の時代まで目にすることができた反面、人々の記憶からすっかり消えていくひとつ前の過去もある。
 これらの穴の地表の直径は一メートルから二メートルほどあり、中に入ると、ジャリを取る作業を行なっていたために広がっており、ちょうど徳利の断面のように掘られていた。深さは六、七メートルほどあり、下には水が溜まっていた。男の子たちは、穴を跳び越す遊びをして、時に穴に落ち、大人が縄で引き上げることもあったというが、なかにたまっている水のため大けがをすることはなかったらしい。中に水気があったため、冬に少し遠くから穴の口を見ると、湯気がたっているのがわかった。しかし冬は穴の縁が凍って欠け、危険だったという。
 こうしたジャリ穴は、小川駅近くの青梅街道の南側にもあったし、小平第二小学校の前にもあった。小川駅近くのものは、やはり直径二メートル弱の穴で、当時は青梅街道の両側に手掘りの排水溝があり、この溝より屋敷寄りの位置にあったため落ちる者はいなかった。小平第二小学校の穴には、終戦の時、軍が銃などを捨てていたという。これらが埋められて姿を消していったのは昭和二十年代後半になる。天神町のジャリ穴は、近くの用水に架けられていた橋を取り壊す際、その橋げたの石柱-三メートルほどの長さで四十センチ四方の石柱-を差し渡して上から土をかけ埋められたという。