街道沿いに屋敷を構え、その家々の裏を玉川上水から引かれた用水が貫流し、用水のむこうに畑が続き、さらに奥は雑木林となる。類型的に表現すれば、これがかつてのこの地域の景観になる。もちろん小川村ほどの類型性をもたない例も市域南東部に見られるのだが、そこでも前もって計画的に分割した線に沿ってむらの開墾、定住が成っている。
現在も街道沿い農家の背後に短冊状の畑が一町歩も二町歩も続くといった景観は、小川の青梅街道の南側にいく例か見られるようだが、さほど残っていない。しかし背後の畑が宅地で埋め尽くされても、本来農家があった場所には、その家筋を受け継ぐ人たちが今も宅地をかまえて住み続けている比率は、旧小川村の小川一番から八番にかぎってみれば、四分の三以上であろう。なかには、街道に直面した場所を店舗に貸し、あるいはアパートを建て、元来そこの宅地に住んでいた家族はそこから少し奥か横に移った場所に居宅を構える例もあるのだが、少なくともその家族自体が街道沿いの宅地から他地域へ移転している率は低い。その意味では、旧農家の人たちは今も多く家筋として小平に住み続けている。青梅街道を歩けば、すぐ道沿いに土蔵、木造の蔵、コンクリートの蔵など様々な蔵が目につき、またかつて養蚕を行っていたと思われる中二階の木造付属舎もところどころに残っている。暮れのミソカッパライの御幣も門の入口に立っており(第七章)、盆にはナス、キュウリの牛、馬がこの門口に置かれている。迎え火や送り火をたくのも青梅街道に面したこの門口のあたりである。伝承の場としての力を、この街道筋は濃厚に保っている。しかしその居宅地をとりまく景観は大きな変容をみた。「やがて値上りした土地を手放して、アパートや貸家を建てる者や、ガソリンスタンドや造園業などに転向する者も出るようになる」と『郷土こだいら』で述べられているように。
図9-4 青梅街道に面した門口での野菜販売 小川町(2010.10) |
図9-5 ミソカッパライの御幣 小川町(2010.2) |