子どもみこし

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 さらに昭和四十年代の後半、商店会の古株や店主が集まっての酒の席で、店の女性たちや子どもたちのために、なにかあとに残していけるような催しをつくれないものかという話が出た。そこに集まった店主の多くは、三十代半ばから四十代にかけての人たちであり、それぞれ家族のなかに小さな子どもがいる世代でもあった。その結果、八月下旬に盆踊りを行うことになり、また、九月中旬の土曜と日曜に子どもみこしを出すことが決まった。
図9-13
図9-13
かつての鈴天商店会の盆踊りのにぎわい 個人所蔵

 盆踊りは鈴天通り商店会主催となり、新小金井街道寄りにあった三百坪ほどの空地を利用して行った。昭和四十年代後半、商店街に活気があった時代のことで、千五百人ほどの人が集まった。この二晩の祭りのために、商店街や地元有志、近隣の人たちから集まった金-商店街の飲み屋に来ている人たちに奉賀帳をまわした-は、三百万円ほどであり、これは当時の商店会の一年間の決算費用の三倍にあたる額だったという。盆踊りには花火を打ちあげ、前述した二つの工場からは、工場で作っている飲料や菓子が大量に寄贈された。子どもみこしがつくられたのは昭和四十八年である。これは浅草(台東区)で作られているみこしを手本にして自分たちで作った。
 この地域は、前述したように、道の北側は天神町であり、南側は鈴木町である。このふたつの地域の氏神は異なり、前者は武蔵野神社、後者は鈴木稲荷社となる。この子どもみこしは、そうした従来の二つの氏子圏を越えてまたぐ形の地域でつくられたことになる。ただし、子どもたちが担いで練り歩くとき、中に神社からのご神体は入っていず、特にお囃子などは付かない。これを担ぐのは、この地域の学区校である小平第九小学校の子どもたちだった。練り歩く道は、商店街とその周辺である。
 この盆踊りも子どもみこしも、十年ほど続いて終わった。みこしはどちらの氏神でもない小平神明宮におさめたという。そしてこの行事が終わる頃から、市が主催する全市規模での様々なイベントが、それにかわるように定着していった。この商店会では現在、九月中旬に秋祭りを行っている。道を通行止めにして路上にプールをつくり、そこで金魚のつかみ取りなどを行う子どもたちのためのイベントである。この時期にこれを行うのは、かつての子どもみこしのなごりであるという。