商店街の消長

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 さて、次にこうした商店街を形成している個々の商店のあゆみをいくつかの例をもとに示してみよう。
 西武国分寺線小川駅周辺の商店街は三つの地区にわかれている。駅から東の一角、同じく西の一角、そしてそこからさらに西の一角であり、それぞれ個別に商店会活動を行っている。ここでは、この三番目、俗に中宿(なかじゅく)商店街と呼ばれている店々のなかの一軒についてふれてみたい。小川は青梅街道沿いに西から上宿(かみじゅく)、中宿(なかじゅく)、下宿(しもじゅく)とわけられているが、この商店街は中宿の後背地に位置するためこの呼称がある。現在中宿の道沿いに並ぶ店のうち、商店会に加盟しているのは五割ほどであるというが、しかしこの商店会は、小平市の地域商店会としての歴史は古く、また内部の結束の強い商店会として知られている。
 昭和三十五年、市の北部にブリヂストンの東京工場が操業開始して以来、そこで働いていた人たちがこの店々を利用し、そしてその頃から近隣に住宅が増加していったこともあって、古老の表現を借りれば、当時は「いつも通りが人でうまっている」ほどの賑わいをみていたという。この商店会であたらしい祭りを起こそうということになり、昭和三十四年からみこしを出し、また東村山から山車(だし)を借りて十年間ほど独自の祭りを行っている。とはいえ、この地域の消長は、現在この商店街に住む古老の一代のうちにおさまる動きでもある。同じく古老の表現を借りれば、シャッターが降ろされた店が増え、後継者がいない店が多い現状は、この商店街が盛んになる前の「五十年前にもどってしまった」ということになる。
図9-15
図9-15
『小平町誌』にある中宿商店街の昭和30年1月の様子。ただ、引用にあたり図の外縁の一部を省略している。aが本文で述べる開業した燃料店。ただこの図では菓子店となっており、まだ間借り中とみえる。旧家主が菓子店を営んでいたのだろう。上がほぼ北