昭和二十七年秋、まだそれほど店が並んでいなかったこの中宿に、飯能(埼玉県飯能市)から移り住み、薪炭などの燃料を扱う店を開いた大正十四年(一九二五)生まれの人の話を以下に示したい。
彼は戦争が終わり、軍隊から飯能の生家に戻ると、昭和二十二年から、生家で薪や炭を扱う商売を始めた。この店から自転車で立川、小平、田無の一帯をまわって注文をとり、あとでその品々をトラックで配送した。現在でいえば四トン積みほどのトラックであったというが、荷台にぎっしり積み上げると、ソダ(長さ一・五メートルほどの細い枝)の束なら二百五十束、薪(長さ三十センチ、束径五十センチほど)も二百五十束まで積め、炭俵は二百俵ほど積めた。
やがて独立を考え、それまで荷の配送で懇意になっていた中宿の燃料店の主人に頼み、そこの倉庫を借りて住み込んだ。これが昭和二十七年秋のことになる。倉庫は九尺に二間ほどの広さで、そこに自分で床を張り、ムシロを三枚敷いて居住の場とし、商売を始めた。家主の燃料店主は、さほど商売に気がなかったのか、快く支援してくれ、のちに自分は店をたたんでいる。当時、この燃料店のまわりには、うどん屋と惣菜屋があった程度で、西には不動産会社が管理する空地が続いており、その管理人の家があった。その南は赤松の林で、そこにはあちこちに防空壕のあとが残っていた。
風呂は毎回十円を払って、その家主の家のものを借りた。当時この一帯は上水道は引かれていたが下水道はなく、生活排水は各家でジャリ層が出るまで敷地内に穴を掘り、そこに流し込んで捨てていた。いわゆるスイコミである。スイコミも家主の家のものを使わせてもらった。これは当時ごくありふれた汚水処理のやり方であり、昭和三十年代に造られた都営住宅にもしばしばみられた方法である。なお小平全域に下水道設備が完備したのは平成三年のことになる。
倉庫に住み着いた当初、所有物といえば二枚のふとんと飯ごうと茶碗と箸のみ。毎朝、湯のみ二杯分の米を飯ごうで炊き、炊き上がると、その表面を箸で線を引いて二分割し、半分を朝食、残り半分を昼食とした。夕飯はコッペパンひとつに砂糖をつけたもの、たまに隣りのうどん屋でカテうどんと焼酎一杯と張りこむこともあったが、商売はそうした日々からのスタートだったという。昭和二十七年当時、中宿の通りは店がぽつぽつと散在する程度であったが、その後急速に住宅や工場諸施設が増えていき、商店が発展する時代が始まった。