燃料店の暮らし

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 燃料店の仕事は、まず近隣の家々への御用聞きから始まった。御用聞きとは、家を定期的に-毎日、あるいは二、三日おきに-まわって注文をとっていくことである。中宿周辺だけで住宅が三百戸はあり、さらに隣接する東村山の住宅などを含めると、二、三日かけてやっとひと通りまわれるほどだった。これらの家をすべてまわるのではなく、燃料の販売店のため、まず風呂を備えている家々からまわった。これは煙突を目安に訪ねていけばよい。
 御用聞きという商い法が成立するのは「専業主婦」という存在が社会のなかに根強く存在していることを前提としている。共稼ぎではなく戸主のみが勤め人の家庭ということになるのだが、それだけにその家の諸支払いも月給日後の月末払いということが多かった。しかし燃料店を開業したばかりで、手元の資金は潤沢とはいえず、その場での現金払いをしてくれる家のみを顧客に選んだという。その頃は、家々で干されている洗濯物や勝手口に置かれている履物で、その家の豊かさの見当をつけることができた。
 やがて商売は軌道にのり、正式な店舗をかまえ、従業員もおくようになっていった。当初、一般家庭の燃料は、薪炭と石炭だったが、昭和三十年頃から石油コンロが普及し、同三十年代半ばからはプロパンガスが広まり、同四十年代半ばになると、多くは都市ガスを利用するようになっていった。燃料店が忙しかったのは、プロパンガスの時代までになる。プロパンガス機器の手入れや修理、点検は、夏の時期に行っていたため、通年で仕事があった。この店は、一般家庭への販売のみでなく、市内の学校や、東村山、清瀬、国立(くにたち)など近隣の市の病院、また府中市の競艇場へ燃料を納める権利を入札で得ていたが、薪炭の時代からプロパンガスに変わってもその納入は続き、店の勢いは衰えなかった。多いときは六人の従業員がいたという。
 薪炭は飯能からも仕入れていたが、石炭を含めて燃料一般は、杉並区の問屋からも仕入れていた。この問屋はのちに東村山に移った。群馬、長野、山梨の山間部に買い付けに出向くこともあった。朝、小川駅に貨物列車が入ると、ホームには届けられた薪炭が山積みに置かれる。それを従業員が朝食前にオート三輪で取りに行った。